彼女の挙げたお菓子はどれもおいしそうで、ふ、と小さな溜息が洩れた。
物語ので見ただけのお菓子を実際に食べられるなんて、想像だけで腹が鳴る。
取り分けてもらったバクラヴァをふたつ受け取り、少し行儀悪くフォークの先を回す。
向けられる視線には思案げに顔を巡らせ、浅く頷きを返して。

「残ってるのは非常食っつーか、道中のおやつにでもすっかね。
　あんまりのーんびりお茶してるのもアレだろうし。程々、先に行かねェと。
　それにしてもバタつきぱんのちょうちょなァ…俺も気になってたわ」

バクラヴァを齧る。あまい香りを振りまく蝶々を思い出してか、視線が中空を流れ。
まるでルーチンワークのように紅茶を含んで、ほっと安堵の息を吐く。
そーゆー本あるだろ。おれも、自分が言った所をちゃんと覚えておきたくてさ。
彼女の言葉を聞きながら浮かび上がったその台詞はしかし、発する前に飲み込まれて、消えた。
無風であるはずの場所に、春を思わせる香りと共に、飛び込んできたものがあったからだ。

彼女が名を呼んだそのエンブリオを、見遣る。それが何処から来たかはすぐに解った。
恐らくはきっと、出立の時に言っていた例の件に進展があったのだろう。
吹く風に双眸を細めて瞬くと、目に入ったのは羽根から姿を変えた手紙と彼女の表情で。
持っていたカップをテーブルに置いてから、けれども手は伸ばさずに、そっと視線を返した。

内容は気になる。けれど、男が最初に触れて読んではいけない手紙だ。
だから、待つ。彼女がその手紙に目を通して、内容を掻い摘んで男に教えて―――

「……、ヤドランカ」

でもそれより早く、彼女の丸くて大きな双眸からは、ぽろりと涙が零れてしまった。
その手から零れた手紙を受け取ろうとして、ぶわ、と。飛び出してきたものに目が丸くなる。
ふわりと浮かんで、漂っては元の紙包みに戻ってゆく…春の花。元気いっぱいの色をした、
彼女の髪に良く似たたんぽぽの綿毛たち。思わず、息を止めてしまうほどに優しい姿のしている。
一度は戻した指先を伸ばし、まずは涙も止められずに泣き続ける彼女の頭を、そっと撫でてやり。
けれども手紙には触れぬままで、やっぱりただただ黙ってそうしていた。

「ん、……流石にちょっとビックリはしたけど、それぐれェ構わねーよ」

きっと、アンキッツァ先生は約束を果たしてくれたに違いない。
これが悲しみの涙で無いことは、男とて、言われずとも解る。
少しの後で差し出された封筒を一瞥してから、手を下ろし、それを大切に受け取って。
綿毛を飛ばしてしまわぬよう注意しつつ、中身に目を通させてもらった。

ありがとう、と。告げられる言葉にゆるく首を振る。
彼女は決して仲間から見放された訳ではなかった。当然と言えばそうだろうが、
それが解っただけで男としては十分だった。帰る場所がある事は、きっと、何事にも替え難いから。

「良かったなァ両親や長老たちが無事で、先生も、…確り魔法を掛けてくれて。
　心配事がひとつ減って、安心したわ。ホント。
　あとは―――おれたちが、出来る限り約束を果たす番だろーな」

そうと呟きを落とし、頑張ろうな、男もその言葉を繰り返す。
戦いが終わったら何も出来なくなる訳でもない。むしろ、これからが本番だろう。
王が斃れても戦いを続けるものがいるなら、目を覚まさせてやる、それもまた出来る事のひとつだ。
言葉に促されながら片付けを進めて、調理場を後にする。
何処か重苦しい雰囲気の漂っていた廊下は不思議と、前よりも、ずっと進み易い道に見えた。

甘い香りに惹かれるよう彼女の後ろを歩みながら、そっと笑い混じりの息を吐く。


「おっしゃ、……やれるコトをやるとしますかね。メルンテーゼの為にも」

歌うように呟いて、羽根ペンを持った右手を伸べる。
羽根ペンに宿った光のひとつが飛び出して、くるくると回り始めた。

ひとつ、ふたつ、みっつ。
回るたび、辺りの温度が下がっていく。
吐く息が白くなる。ちらちらと、白いものが落ちてくる。
星まで凍らせるような冷たい風が、サッと下から上へと吹き上げた。
目を開けると、いつから立っていたのだろう。
そこには、白い肌、赤い反物を携えた女がいた。