てちてち、てちてち。
歩く。
視界が下がってしまっているのに気づく。
顔を上げる。
彼と目が合う。
彼がこちらを気遣っているのが分かる。

……そろそろ、気に病むのをやめなくてはいけないことも。

先生からの連絡は、まだ来ないけれど。
でも、先生のことだから。
必ずなにか方法を見つけてくれる、そう信じてる。

良いことが待っているのなら、塞いで待つのは時間の無駄だ。
悲しみに湿気た頭では、名案も浮かばない。
ならば、自分の機嫌のひとつくらい、自分で取ってみせようじゃないか。

「…エンバーさん、今日のごはん、何が食べたい〜？
ちょっと、調理場に行って、材料お借りして来ましょうか〜」

あっち、と指差したのはあてずっぽう。
方角からして、調理場への近道だろうと推測した扉のひとつ。
だが、階段を上って、扉をくぐって、ぐるぐると歩いた後では方向感覚に自信の持てるわけもない。
さて、さて、その扉の向こうには、いったい何があるのやら。

嬉しそうな様子の彼女を見て、男もまた、楽しげに喉を鳴らして笑う。
受け取ったリツィタルを飽きもせずに眺めながら、一人、浅く頷きを落とした。


＊　＊　＊

暫くしてから。廊下を迷いながら歩いている途中、不意に脚を止めて。

彼女の名を呼び、振り返った所で差し出すのは小袋だ。
シンプルな白地に橙色のリボンが掛けられたそれを開けば、
中には果物や花のかたちを模した、一口大のキャンディーが入った小瓶がある。

言葉の合間にゆるりと振られた彼女の首に、小さく笑って淡々と言葉を続ける。
大まかな事は思い出したが、細かい部分ともなると記憶が正しいかは少し危うい。
それでも、こうして親身に男の話を聞いてくれる彼女には、感謝ばかりが募った。

沈黙の時間は少しだけ。彼女が覚えた疑問は、すぐに言葉で飛んでくる。
その“どうして”を受け止め、記憶の溢れた引き出しを探って、答えを探す。
そんなやり方で見つかるものかは解らない。けれど。

思案げに双眸を伏せ、男もまた言葉を探すように間を置く。

沈黙。

おかしげに、肩が揺れる。

世界をめくった裏側に別の世界があるように、男が生まれた物語もまた、
“版”という形で幾つもの世界を生み出し続けている。
ジャバウォックという魔物も、きっと一匹だけではないのだろう。
与えられた役割、勇者にただただ打ち倒されるだけの命に疑問を持つ方が、
もしかしたら異端であるのやも知れない。否、異端であったに違いない。

冗談めかしてそう言ったのは、暗く沈みそうな彼女の気持ちを、少しでも掬いたいが故に。
伸ばした掌でその柔らかな金の髪をぽんぽんと撫ぜてから、口端を持ち上げて。

下腹の羽毛を逆立てたまま、敵を見据えている。

歌うように呟いて、羽根ペンを持った右手を伸べる。
羽根ペンに宿った光のひとつが飛び出して、くるくると回り始めた。

ひとつ、ふたつ、みっつ。
回るたび、辺りの温度が下がっていく。
吐く息が白くなる。ちらちらと、白いものが落ちてくる。
星まで凍らせるような冷たい風が、サッと下から上へと吹き上げた。
目を開けると、いつから立っていたのだろう。
そこには、白い肌、赤い反物を携えた女がいた。