彼女にかけられる上手い言葉は、浮かばなかった。
だから、小さくて羽に包まれた柔らかな身体がぽふんとぶつかってくるのに、
ただただ慰めるようその背中を撫でさするしかない。どこか、不甲斐なくも。
本当は、もっと泣きたいのだろうと思う。我慢している様子は簡単に見て取れたが故に。
謝罪の言葉を口にする彼女へゆるりと首を振ってから、ぽん、とその頭を撫でて。

「こっちに住んでんのは…ガチョウ？か。あーでも半獣ってワケじゃねえのなァ。
　…そーだな。前に機会があったら会ってみたいっつったし、折角だから。
　おれが着いてっても構わねェならさ、ぜひご一緒させてくれよ」

彼女が懐いている相手の元なら、或いは多少でも落ち着く事が出来るかも知れない。
そんな思いもあって首を縦に振り、初めて見る村と景色に瞬きを落とす。

「……？」

けれど、村の方を示されはしても彼女は一向に歩こうとはしなかった。
声を掛けようとして、差し出された手を見て、そうと知れぬよう小さく笑う。
ほら、と。彼女の手を引きながら、スクー村を歩き始めた。

何処か排他的にも思えた（最初の頃の話だ。今は、その理由も解っていた）トート村とは違い、
こちらの村に暮らすガチョウの獣人たちは、男のような生き物にも距離を置く事はないようだった。
勿論それは、彼らにとっての顔見知りである、彼女が一緒だったからなのもあるだろう。
簡素な会釈を返しながら村を進んだ先、彼女がある家の前で足を止めればそれに倣い。
色とりどりの花や植物に飾られた、春のようなうつくしい玄関先に惹かれて視線を巡らせた。

「あら、ヤドランカ？　久しぶりねえ。…」

彼女の名を呼びながらドレスの似合うガチョウ――“先生”が姿を現して、繋いだ手が揺れる。
その姿はアヒルの獣人たちとは違って、やっぱり普通のガチョウの姿であり。
我々は作られたのかも知れないと、そう語っていたトート村の長老の話を不意に思い出した。
アンキッツァの視線が男の方を向くのに合わせて、彼女の目から涙がぼろりと零れてゆく。
宥めるように彼女の背中を叩き、そのまま玄関先へと導こうと小さな背を押してやる。

招かれた温かなその家の中は、やさしいハーブと紙の香りがして、不思議と心が穏やかになった。

「…そ、エンバーっつうの。ヨロシクどーぞ、アンキッツァ先生？」


＊　＊　＊


暖かい飲み物を頂戴して、一息つく。
アンキッツァの元に来るまでの経緯を掻い摘んで話し、一揆隊として攻城する最中の出来事を話し、
おいしいご飯の話を交え、彼女が泣き虫である話に及べば、けたりと喉を鳴らして笑った。
彼女がぽつりと言葉を落とし、それを男が補足して大袈裟に加工すると、何だって胡散くさい話になる。
けれどアンキッツァはどんな話も微笑み交じりに聞いてくれるから、幸いにも会話が途切れる事はなかった。

少しは元気も出ただろうか―――

そう思って男が彼女を伺うと、視線が真っ向からかち合って小首を傾げる。
途切れた言葉の先は、男が直接言うべき所だろう。彼女にばかり任せるわけにもいかない。
何処から話すか迷って、結局、覚えている限りの全て話す事にした。隠すようなものは何もないが故に。

「…おれはジャバウォックでね。知ってる？鏡の国のアリスっつー小説をさ。
　アレに出てくる化物だよ。正確に言えば、その小説に出てくる話の中の…ってカンジかね。
　まァ、何にせよそこから飛び出して人間の形をもらって、今、こうして世界を旅してんだ」

物語になぞらえて生きてきたこと。
そのうちに此処を飛び出して、人のように生きたいと思ったこと。
ある日現れた魔法使いのような相手に、人になる方法を教えてもらったこと。
その代わりに交わした約束があったが、旅の最中に忘れてしまったこと。

「多分、大切な約束だったと思うんだ。
　忘れたけど覚えてるっつーか、引っかかってるっつうか…上手くいえねーけども。
　ヤドランカから聞いた話じゃ先生は魔法とか本に詳しいってコトだから、何か知らねェかと」
「そうなの…。大変な思いをされてきたのねえ。でも、ごめんなさい。
　その魔法使いのことは分からないわ〜…あなたの言う本なら、持っているのだけれど」

そう、確かその辺りに。
彼女の言葉に頷きを返して、アンキッツァの指先が本棚の少し上の方を指差してみせる。
すぐに小さな身体が本棚の方へと足を向けて、精一杯伸び上がり、少し古びたその本を手に取った。

件の物語が記された本を探す背を追い、男もまた、座っていた椅子からゆっくりと立ち上がる。
本当に此処には沢山の本が眠っている。懐かしい気持ちになりながら彼女の手元を覗き込もうとすれば、
ふいっと開かれたページは伏せられ、文字の羅列は見えなくなった。思わず、双眸が瞬く。
自分が登場する本を自分で読んだ事はなく。良い機会かと思ったが、彼女が否と言ったら引かざるを得ない。

「そーかよ。んじゃ、ヨロシク」

よもや男がそれを目にすることで物語に還ってしまうのではと、彼女が思っているとは知らぬまま。
柔い声音が物語の一節一節を口にするのに、大人しく耳を澄ませた。
勇者が魔物を討ち取る一幕。まっくらもりに訪れた少年が、現れたジャバウォックに刃を向け―――


　君に頼みごとがあるんだ。


不意。
彼女が物語をなぞる声に合わせて、誰のものでもない不可思議な声が男の耳に届いた。


　この物語から飛び出したいと願っただろう？私ならその望みを叶えてあげられる。
　星の数ほどに広がっている、他の世界を見てくると良い。
　そのついでに、ちょっとした探し物をして欲しいのさ。


燃えるような赤い双眸を持つ魔物が、よろめくような足取りで森の奥から姿を現す。
相対するのは小さな勇者。勇者、…勇者だったはずだ。あの時までは、確かに。


　そうだな、すぐに見つかるものではないと思う。
　“ちょっとした”とは言ったが、実際は“結構立派なもの”だ。
　或いはこの世界に留まり続けることでも手に入るかもしれないが、
　自由を得られるのなら、こんなところに居たくはないだろ？解っている。


突き立てられる剣の代わりに、投げかけられたのは声だった。赤い瞳の、男によく似た。


　よその世界のものでも構わない。同じ名前なら、効果だって同じだろうから。
　…別に気まぐれや慈善で手を差し伸べているわけじゃないよ。
　交換条件を言っただろ？私は旅するのに少し疲れてしまってね。
　代わりに探してきてくれと、無理なお願いをしてるはこちらだろうさ。


彼女の声に被さる、声。


　時間はどれだけかかっても良い。見つけたら、戻ってきてくれ。
　そのあいだ、この版の本は私が見てくよ。やり方は良く良く知っているから。
　私にはね、君の気持ちが解るんだよ。何故かって？それは秘密さ。


声。


　世界は広い。魅力的なものを見つけたら、忘れてしまうかもしれない。
　だからこれだけは言っておこうか。旅の最中、決して“脚を止めてはいけない”よ。
　忘れたっていい。どれだけこの願いを後回しにしたって構わない。
　でも、旅をやめるのはダメだ。やめるのなら、私の願いを果たしてくれ。…


長い旅で積もった埃に埋もれたものが、彼女の言葉と、忌まわしき一冊が拭ってゆく。


　君が望むのなら、なんでもあげよう。人になる魔法だってあるんだ。
　代わりに、ただひとつの私の願いを―――


　じゃあ約束だ。


　“切り裂くもの。けしにぐの剣を、どうか私のところに持ってきて欲しい”


「………、」
ジャバウォックが打ち倒されたところで止まった彼女の朗読の、その余韻が鼓膜を打つ。
湧き上がるように湧き上がるように、永遠ともつかぬ旅の記憶が零れ落ちるままに。
おもいだした。
声には出さずに、そのたった六文字だけを紡いで、男の唇は静かに噤まれた。


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：ヤドランカ（1204）さんの日記に続きます … http://lisge.com/ikki/r/k/k1204.html

つんつん。
服の裾を引いて、彼の注意をこちらに向けようと画策する。
彼がこちらを向いたなら、はい、と差し出したのは、手のひらに乗るほどの赤いハート。
よく見ればそれはジンジャークッキーで、アイシングで花やレースのような模様が描いてある。

下腹の羽毛を逆立てたまま、敵を見据えている。

歌うように呟いて、羽根ペンを持った右手を伸べる。
羽根ペンに宿った光のひとつが飛び出して、くるくると回り始めた。

ひとつ、ふたつ、みっつ。
回るたび、辺りの温度が下がっていく。
吐く息が白くなる。ちらちらと、白いものが落ちてくる。
星まで凍らせるような冷たい風が、サッと下から上へと吹き上げた。
目を開けると、いつから立っていたのだろう。
そこには、白い肌、赤い反物を携えた女がいた。