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「"――おお芳晴（かんば）らしき日よ！　花柳かな！　華麗かな！』
父は喜びにクスクスと鼻を鳴らせり。"

……――エンバーさん？」

ゆっくりと、先生とその家の居心地のよさに落ち着き始めていた声は、彼の気配に気づいて止まった。
名を呼ぶ声、その語尾が案じるように上がる。
痛みや苦しみではなさそうだ。だが、遠くを見るようなその赤い目は。
鋭い歯を隠す薄い唇。それが、声もなくなにかを呟いて、閉ざされた。

「どうなさったの、エンバー？　急に、固まってしまわれたけど」

こちらの表情を読んだのか、先生がさりげなく、冗談めかした声を彼に向かって掛けてくれた。
それに力を得てもう一度、彼の名を呼ぼうと口を開く。

「エンバーさ――」
「ヤドランカ！　おるんだろうヤドランカ！」
「あなた〜　夜も遅いのだし、落ち着いて〜。ご近所にご迷惑になるわ〜。
先生、アンキッツァ先生〜？　いらっしゃる〜？」

玄関から聞こえてきたのは、両親の声だ。
先生が、身振りで「あなたはここにいなさい」と示して部屋を出て行った。
小さな家だ、玄関の声は筒抜けになる。

「ああ、先生、夜分にすいませんな。
うちのヤドランカと……人間の男が来ませんでしたかな」
「先生、お久しぶりね〜。ごめんなさいね、急にお邪魔して……。
急だったから、つまらないものしかお持ちできなかったのだけど、
これ、アメマスの干物、良かったら召し上がって〜？
それでね、うちの娘、来ていないかしら〜。
ちょっと、うちの長老にきつく叱られたみたいでねえ〜…。
あとね、それと、相談に乗って欲しいこともあるのだけれど〜」

本を取り落としそうになった。
どうしよう、どうしよう。出て行ったほうが良いんだろうか。

「あらあら、ヤドランカったら家出しちゃったの？
それはともかく――ご相談とは、なにかしら？」

先生の声は、驚くほどに普段どおりの平静なものだった。
思い切って、そっと、ドアの影から玄関の様子を伺う。
両親からは、見えないように気をつけて。

父は落ち着かなげにそわそわと、母はいつものようににこにこと笑っていた。

「ええ、ええ、私たち、ちょっとここを離れることになってね〜。
ヤドランカも、連れて行きたかったのだけど……」

まるで世間話のようににこやかに口にして、けれど次にはその表情を翳らせて頬に手を当てるのが見えた。

「ちょっと、ね〜　難しいかもしれないの〜
だから、ね、先生？　離れていてもどこにいるか分かるような、
ううん、できたらおしゃべりも出来ちゃうような、そんな魔法の道具はないかしら〜？」
「！」

ふたたび、下腹の羽毛が逆立つ。
離れることは、止められない。それが一族の総意なら。
ついさっき、従わないと袂を分かった。
でも、でも、でも。
離れても、繋がっていることが出来るなら。
思わず彼を、振り仰ぐ。

「あらあら、それは…本当に？　寂しくなるわねえ……。
そして……うふふ、それは依頼ね？　いいわ、少しやってみましょうねえ。
タンポポの力を借りるのがいいかしら。
少し時間をくださるかしら。すぐには出来ないかもしれないけれど。
これからいろいろ試してみて、また明日にでもご連絡するわ」
「頼みますよ先生」
「お願いね〜？」

ぺたぺたと、二つの足音が去っていく。
その音がすっかり小さくなってから、先生はそっと扉を閉めて戻ってきた。

「……なにか、大変なことになっているようねえ。
トート村は、私たちと違ってエンブリオちゃんたちと仲良くしてはいないから、
ネクターが少なくなってもあまり影響はないでしょうに……」
「あの、先生〜……」

言いかけたそのタイミングで、ぽんと頭に翼が乗せられる。
先生の青くて丸い目が、笑むように細められた。

「……疲れたでしょう？　ヤドランカ。エンバーも、ひどい顔色。
お布団を用意するから、今日はもうお休みなさいな。
私は、あなたのご両親の依頼のために、実験を始めなくちゃ。
気にしないで、寝て頂戴な」


　*　*　*　


トート村も、スクー村も、寝床のしつらえは同じだ。
身を折り、己の背に頭を預けて眠る鳥の獣人には、人のような長い寝台は必要ない。
彼の分だけ、来客用なのだろう長くて幅広の寝具を敷いて、
こちらは天井から吊られたハンモックに揺られている。

とはいえ、まだ眠ったわけではなく。
セカがほのかに放つ光を頼りに、なにかを紙に書き付けている。
その間も、時折、彼が横たわっているだろう床の方を見下ろしては、
なにかを言いたげに口を開きかけるも、また閉ざす。
そうしているうち、書き付けも終わった。そっと封筒に入れ、封をする。

翌朝、少し眠そうな先生に、昨夜書いた手紙を預け、幾度も礼を言って村を後にする二人の姿があった。
トート村を目指して川を渡るのではなく、陸伝いに。
来たときとは違う道をたどって、また、一揆の戦列に加わるために。

昨夜、両親が頼んだ"離れていても繋がれる道具"。
出来上がったら、片方は両親に渡すとして、
もう片方は預かっておくから一揆が終ったら受け取りに来なさいと、
先生は言ってくれた。

預けた手紙は、きっとその魔法具と一緒に両親へと渡されるだろう。
長老が、それを読んでくれれば良いのだが。
――また、今までのようにおいしいごはんを間に挟んで、笑いあうことができれば良いのだが。

傍らの彼を見上げる。
顔色は戻っているだろうか。表情は。

「ね、エンバーさん〜　あのね、昨日の……
父さまと母さまが来ちゃったから、うやむやになっちゃったけど、あの。
……なにか、ヒントになるようなこと、お約束、思い出せるようななにか、あった〜？」

下腹の羽毛を逆立てたまま、敵を見据えている。

歌うように呟いて、羽根ペンを持った右手を伸べる。
羽根ペンに宿った光のひとつが飛び出して、くるくると回り始めた。

ひとつ、ふたつ、みっつ。
回るたび、辺りの温度が下がっていく。
吐く息が白くなる。ちらちらと、白いものが落ちてくる。
星まで凍らせるような冷たい風が、サッと下から上へと吹き上げた。
目を開けると、いつから立っていたのだろう。
そこには、白い肌、赤い反物を携えた女がいた。