主戦場を後にする。ここは寂れた裏庭の一角。

　筒を肩に。しっかりとした足取りで、老貴婦人は古戦場を征く。
　疎らに生えた庭木の根元を射抜くように睨み付けた――視線の先にもう一人の老貴婦人が居る。

「ねえ、ご存知かしら。自分自身と出会った者は死んでしまうのですって」

　一人は囁く。酷くかすれた、弱々しいささやき。
　二人の老貴婦人は、まるで鏡像のようによく似ていて、まったく何処も似てはいない。

　一方の手元には血に濡れたハンカチーフ。血の気のない頬は僅かに痩けて見える。
　もう一方の手元には、よく使い込まれた銃が一丁。何処からどう見ても健康そうに見える。
　弱り切ったろう貴婦人の言葉を耳にするや、銃を携えた老貴婦人は、言葉にそっと怯んだように見える。

「残念ながら、わたくしはあなたのドッペルゲンガーじゃないわ」

　けれど、それもほんの一瞬のこと。
　ドッペルゲンガーではない――その言葉が手品の種明かし。彼女の身体は雷光に包まれる。
　厳つい指、腕、身体。野戦服。雑に刈った朽葉色の髪。錆浅黄色の双眸。
　まばたきをする時もなく、クリストフの姿に切り替わる。

「相変わらず見事ねえ」
「誰かを演じるのは得意なんだ。斯くあるように……訓練されたからね。ずいぶんと丁寧に」

　蒼い瞳の狼は居ない。
　居るとすれば――それは狼ではなく、ただの犬か、狼のふりをする化け物だ。

　そうして、彼は“化け物の方”であった。
　肉体の設計図を書き換え、全細胞へ瞬時に反映する希有な変身能力。
　古い島を知る――ベルクレアの連中ならば、彼が何物であるか知っているだろうに。
　本人はあくまでも“人狼”と言い張るだけ。古い友達が気に入っている姿に、彼自身も好んで依存する。

「調子は……良さそうには見えないな」

　クリストフは老貴婦人の前にしゃがみ込み、そっと頬を撫でる。
　指先の熱を奪い去る、死者のように冷たい頬。

「心配してくれるの？　嬉しいわ」
「当然だろう。君がここまで無理していると知っていれば――」
「……ごめんなさい」

　引き金は明快。処理能力を越えた魔術の行使。職業病とも。
　一つの脳で複数人の物語を再生し続ける、その代償――自我の崩壊。自分が何者であるかも判らなくなってゆく。
　心は消えようと、それでいてそれ以外は正常そのもの。記憶に残る自分自身を再現し、演じる程度はやってのける。
　一切をごまかすための“自分の足で動かない、ばかで愚かな貴婦人”という演技は、
　もはや自分自身すら“そうであった”とごまかせるほどに板に付いた。

　だが、もはや取り繕う気力すら存在しない。
　引き金を引けば弾が撃たれる。撃たれた弾は照準通りに突き進み、やがて胸に大穴を開ける。

「何故謝るんだ、その必要はないと言っただろう。君は昔から謝ってばかりだ」
「わたくしがもう少し強かったら、こんな事には――…」

　指先はそっと老貴婦人の唇を押さえる。
　交錯する蒼い視線。老貴婦人の瞳には、首を横に振る傭兵の姿。

「シドニー。君が手を汚す必要など何もない。
　私が君の代わりに戦おう。君の代わりに刃を受け、君を必ずや守ってみせる」

「そう……そうね、甘えちゃおうかしら」
「ああ、そうしてほしい。何時だって遠慮してばかりだ、断壁の人間には珍しい」

　子供を褒めるように、頭を強く撫でる。

「それで、何時からこうなったんだ」
「さあ、いつだったかしら。思い出せないわ。最初だったかもしれないし、最近かもしれない」

　眉をひそめる。酷く気分を害した様。
　
「しらばっくれるのは止してくれないか。これも君の悪い癖だ」
「そんなに聞きたい？」
「ああ。君を苦しめる要素が外因的なものなら、この手で排除できる」
「ごめんなさい、それは無理だわ」

　老貴婦人はクリストフの顔を見上げる。
　最初に出会ったとき――ワルツに誘う彼の手を取った、その瞬間のように。
　ただ、そこにあるのは笑顔ではなく、酷く困惑しきった彼の顔。

　――残念だわ。
　心の中だけで囁く言葉は、愛する人の耳には届かない。


「割れた卵は元に戻らないわ。これがエンブリオの本質だから」

老貴婦人はわくわくしている。

　御者台から青年は振り返れば、荷台に向けて親指をぐっと立てる！

アムドゥシアスが歩けばラッパが鳴り響く。
老貴婦人は手の平で両耳を押さえ、忌々しげに睨め付ける。

　老貴婦人だけではなく、愛馬も飛竜も迷惑そうにしているが、
　ただひとりニヤリとすれば、大きく弓を構える。

日に焼けた書籍の匂いが空間を満たす。
周囲に浮かび上がる錆浅黄色のバイナリは執事の姿を描き出す。

　

　運び屋は鷹揚に笑うと、風を冠する愛馬の首をぽんぽんとねぎらうように叩いた。

老貴婦人は銃を両手で握り、優雅に素振りを始める。

　

　まったりとゆるやかに、大きく伸びをすれば、あくびをひとつこぼす。

ブリギットは氷の剣を具現化した！