少しだけ遠い場所で、何かが動いた。

　その感覚は、噂と共に確信に変わった。とうとう、新王パラダイスと交戦した一団が現れたというのだ。
　パラダイス発見の報と共に、たちどころに塗り換わる進攻状況は、少し手間をかければすぐに調べられる。改めて用意された範囲でも、一揆に参加したひとびとが作り上げた網でも。
　調査隊の中でも特にデータ集積と編纂に長けている女性が、その第一報を聞きつけた。自分達がやることに大きな変化はないが、『終わり』という言葉を思い浮べたのは、恐らく自分だけではない。

　無限のネクターが続く空間に君臨していたという王は、それまでの漠然とした偶像よりも更に無機質な、決まりごとそのもののような風情であったという。――あるいはこの世界において、『王』という言葉は、ルールそのものを指すのだろうか。そう、思うほどに。噂に聞く王には『人柄』と呼べるものはなかった。

　研究棟も調理場も兵舎も、見知らぬ誰かの痕跡と思われた何かもすべて、あらゆるすべて。
　王という立場が『統治』するものは、ここにはない。だが、そもそも、誰もそんな話をしなかった。王は守るものという定義は、この時点でもなお覆らない。
　ルリアンナ。一種独特の存在感を持つ、偽者としても現れるという噂のその女性は、ただ、『ネクターの独占が行われている』としか言わなかった。誰も、嘘は言っていない。
　……強いて言えばひとつだけ。彼女本人は『一揆を影でサポートする参謀』と自己紹介したが、全然、まったくもって、影に回ってなどいない。あれは単に普段は農場に居るだけだ。

　王を討つということを、遠い昔、おかしいほどに望んだひとがいた。
　確かにいたのだ。
　その望みは呪いとしてこの身に刻まれているのに、そのことに思い至ったのは、王の影が明確になった、今になってからだ。
　あの時の望みは、よりよき生活などではなく、ただ全てを断つこと。
　自分の中の呪いに問いかけても、最早答えは返ってこない。文字を追うように、解読してゆくしかない。――エンブリオは、その助けになった。大きな前進になった。

　最初に交戦したひとびとは、敗退したそうだ。だが、それがどうしたというのか。難攻と思われた黒騎士ですら、今や多くの人が挑戦し、下している。王がそうならない道理がない。ましてや、そこまで辿り着いたひとびとなのだから。

　廊下の向こうを見る。黒騎士が居るという廊下。その向こうには、礼拝堂。そして、視界を埋めるネクター。
　――噂は、こんな可能性も囁く。この一揆の舞台となった城のすべてが、それらしいつくりものではないか、と。
　王という言葉から思い描かれる風景のすべては、ただ迷宮に被せるように存在する虚像ではないか、と。

　エンブリオ。虚像。王の交代。

　そこに立っていない、噂を聞くだけの自分には、確信はない。
　ただ、この一揆の果ての願いが、あの時と同じように、全てを断ってしまうのかもしれない。
　それは、誰かの幸福に繋がるものであるのだろうか。
　今のままでも悪くないと呟く人は、確かにいるのだろう。
　逆に、決して今のままではいられない、全力で走り続けるしかない人も、恐らくは。

　思考は何も出来ない。何も断てない。目の前にあること、出来ることがすべて。
　そのすべての中で、何かをしなければならない。先送りにしてはいけない何かがある気がする。
　漠然とそれを感じる。焦りで曇って、けれどもう少しで見えそうな、何か。

　それを見たいと、つよく願った。

（手袋を着用する