裏庭からの帰り道。王城地下に建造された巨大な水路には、澱んだ水と汚物の悪臭。それでもリスペイドの下水路よりは遙かにましだった。
　一度だけ、友人の一人に頼んで連れていって貰ったことがある。下水に溜まった泥を浚い、硬貨や金になる物を探し歩く、どぶ浚いの仕事場に。その友人からさんざん下水路にまつわる恐ろしい話を――鼠の群れや毒の空気といった現実味のあるものから、幽霊が出るだとか、鼠に変えられた“狼”が下水へ逃れ、今では群れを率いているといった疑わしいものまで――聞かされていたうえ、たちの悪い冗談で何度も驚かされて、最後には大泣きをしながら「もう二度と下水へは入らない」と心に決めたものだった。
　水の流れる囁き声のような音が煉瓦造りの水路に反響する。これは不快なことばかりの水路の中で、数少ない心が安まる要素だった。ふと、その水音に混じって小さな鳴き声が聞こえた。立ち止まり、左手のランタンを掲げる。水路の先で数匹の鼠が明かりから逃れるように走り去るのが見えた。
　下水には鼠の大群が棲み着いている――元の世界に居た頃に、友人を始めとするどぶ浚いの連中からよく聞かされていた。鼠の群れは恐ろしい。数人で行動すればまず襲われはしないが、無闇に追いつめたり、よほど飢えた群れに出くわすと危険だ。そうして骨だけになった同業もいる……。
　考えるうちに心細さが襲ってきた。今は隣に誰も居ない。裏庭への道を教えた人たち（その中には鳥も居たが）とは既に別れ、エンブリオを使うにしても、ランタンに宿していた竜はとうの昔に野に帰した後だ。今はもうただの道具でしかない。他のエンブリオも皆それぞれの道具の奥深くへと押し込めてしまっている。その体を再び実体として結べるのは、契約を解消するときだけだろう。
　自然と足が速まる。もしかすると悪い空気のせいかもしれない、という考えが過ぎる。中には吸えば命を失うようなものもあると聞かされていた。急にランプの火が消えたなら、すぐにその場から離れろ、と。しかしランタンはキイキイと悲鳴を上げているだけで、その心配は無さそうだったが、念の為にとマフラーで口と鼻先を覆う。本当に悪い空気が原因であれば気休め程度にしかならなかっただろう。それよりも、一刻も早くこの地下水路から抜け出したかった。
　聞こえるのは、金属の擦れる音、時折出くわしては逃げ去ってゆく鼠の鳴き声。自らの足音、浅く早い呼吸、耳の裏で心臓が拍っているかのような鼓動。心の内に降り積もる不安に、先程までは心地よいと感じていた囁きも、やがて理解し得ないざわめきへ変わり、身の内で反響を繰り返して喧噪と化し、とうとう堪えきれずに駆け出そうとしたその瞬間――その全てを置き去って、はっきりと耳に滑り込んできた音があった。
　僕へ向かって投げかけられたそれは、まぎれもなく、呼び声だった。
　思わず息を呑み、立ち止まる。言葉ではない。人の声でさえなかった。ただの音でしかないはずなのに、確かに“呼んでいる”と――。
　体の内から皮膚へと滲みながら、目の裏側まで込み上げてくるものを感じた。その原因は、迂闊にも胸の奥まで吸い込んでしまった臭気だけではないだろう。一つ幸いだと言えるのは、それを堪える必要が無かったことだ。
　液体同士が叩きつけられる音。汚臭に微かに酸味が混じり、すぐに消えた。今や水路は再び囁きに満たされている。
　ほとんど背後と呼べるような、人ならざる視界の端で、横穴の一つに鼠が消えていった。


………………

めをごしごしとらんぼうにこすると、ぶきをかまえました。

狐が掌をかざすと…　白と黒の、切り絵のような蝶が具現する。