さすさす。おでこを撫でてみる。
幸い痛みは感じなかった。

名を呼べば、かばんにしまってあるインクビンの中から、白い光が飛び出してきた。
くるくる、くるくる、羽根ペンとそれを持つ右腕に巻きつくように、白い光がまとわりついて…やがて、先端にすべての光が集まって。
羽根ペンの先が真珠色に光るインクに漬けたようにきらきらと、呪文を唱えられるのを待っている。

彼の言葉に、ページを閉じてしまった後の本の中の時の流れ方を想像して、首を傾げる。
今己が立つこの世界とはまた違う場所、今まで紙に刷られた文字の群れ、
読み手の想像の中にしか現れない陽炎のようなものだと思っていた場所にも、
空間が広がり、人が息づく世界が広がっているのかもしれない。
それはなんて、ワクワクする事実だろう。
そして、その世界の住人でありながら、そこに混ざった記憶のない彼は、

ぽん、と頭の上で弾んだ大きな手に、思考を遮られて声が漏れる。
あっけらかんとした彼の口ぶりとその手とに、またずぶずぶと沈んでいきそうだったところを
引き上げてもらった気がして、くすくすと、また肩が揺れた。

着いていく気なのか、そういう顔はまだ見ぬおいしいものへの期待でとろけそうだ。
だが、ふと表情を改めると唇を閉ざし、じっと彼の顔を見上げた。

おぼろげな記憶を探るため、視線がしばし空をさまよう。
ええと、えぇと、と記憶を手繰り寄せながら、ぽつりぽつりと話し始めた。

なんていいつつ、大きなオレンジの足で地面をぺしぺし踏んでみせるが、
村に伝わる言い伝えが事実だなんて、夢にも思っていない口ぶり。
傍らの彼が歩き出せば、遅れぬように、こちらも、てちん、てちんと歩き出す。
スリッパも、そろそろ慣れてきたようで、足取りに苦労はない。

と、口ではそう言うものの、彼がお勧めするほどの料理のお味に期待が隠し切れないのだと、顔にしっかり書いてある。
心なしか軽くなった足が、彼の何気ない言葉に、てちん、とひとつステップを踏んだ。
くいくいと、彼のマントの裾を引き、注意を向けさせようと試みて。
悪戯っぽい目つきで、己を指差す。

男の指に嵌る指輪から、不穏な気配が漂い始める。

鞄から飛び出してきたエンブリオが、くるくると回る。
回る。
回る。
２人の周りをひと回りするたび、翠の風のように透き通ったその姿が、少しずつ伸びてくる。
まるで影のように、長く、長く。
風が吹き上がる。
髪を揺らす。
ケープが巻き上がる。
たまご色の羽毛があたりに散った。
２人に並ぶように、いつの間にか並ぶ影があった。