焚き火の傍で、エンバーさんがこれまで渡ってきた世界の話を聞きながら、そっと、昔のことを思い出していた。
あれはまだ、川向こうの村との交流が結ばれていなかった頃。
それでもわたしは、川の向こうにある世界を見たくて、両親に隠れて読んだ冒険小説の主人公のように、
父に叱られた日の晩、川へと飛び込んだのだ。
そして、先生に出会って、エンブリオは自然現象なんかじゃない、れっきとした生き物なのだと、
彼らと心通わすのは、決してばかげたことじゃないと教わって。
彼らと通じ合えたとき、ちょっぴり貸してもらえるその力、その効果的な使い方、
彼らが満足してくれるお礼の返し方。そんなものをもっと沢山知りたくて――そして、わたしは進む道を決めたのだ。
父にも、母にも内緒で。
だから、記憶にあるあの日も、母の畑の手伝いをしないことを父に叱られ、夕食抜きで家から閉め出された夜だった。

『先生、この世界は、地面の下にも世界があって、ミルフィーユみたいにいっぱい重なっているって本当？
ぶんかつせかいって、ミルフィーユのことなの？』
『あらあら、それは初耳だわねえ。いったいどなたが……ほらほらヤドランカ、まだ髪からしずくが落ちてるわ。もう１回、拭いておきなさいな』

先生の羽根はいつも真っ白で、オレンジ色のくちばしがよく映える。
すらりと長い首は細くて、いつも被っているレースたっぷりのボンネットがとても似合う。
おそろいのケープも、レースから先生が編んだらしい。
わたしの顔を覗き込むため小首をかしげて、あごの下のリボンがさらりと揺れた。

『ほっぺの腫れは、引いたようね。
ミルク、召し上がるでしょう？　あたためるわね。
ほかには何がいいかしら…。ヤドランカ、何がお好き？　お夕飯、召し上がってないのでしょう？』
『わたし、ムサカが好き〜
…じゃなくて先生、違うの？　ぶんかつせかいは、ミルフィーユじゃあないの？
なら、世界はどんなふうになってるの？』
『ムサカ……　あらあら、聞いたことないわねえ。
どんなもの？　……そう、ツナモルネーみたいなものかしら』

作れるかしらねえ、と呟きながら、ぺたぺたと、私の横を通り抜けていこうとする先生を追いかけて、駄々をこねたのを覚えている。

『それより先生、教えて〜！
世界は、どうなっているの？　父さまは、うそを言ったの？
わたしたちのご先祖様が、地面の下の世界から一生懸命旅してきたっていうのは、
父さまの嫌いなご本の中のお話といっしょなの!?』

父さまに、聞かされたわたしの村の成り立ちのお話。
地面の底から、何度も地面を掘り上げて、ようやくたどり着いたこの土地ほど、住みやすい場所はないと。
だから手伝いを厭わず、この土地を大事に、豊かに育てろ、
早く伴侶を見つけて沢山の卵を産んで、地に満ちよと……意味もわからない子供の頃から、
いつもそう言われていた。
本を読む暇があるなら、物語に傾倒する暇があるなら働けと。
そうやって物語を厭う大人たちがわたしを叱る時に持ち出す根拠が、
彼らの嫌う物語であると…その都合のいい二枚舌に、幼いわたしは苛立っていたのだろう。
先生は、いつものように少し首をかしげて、ゆっくりとひとつ、瞬きをした。

『そうねえ……それはきっと、ヤドランカの村の創世神話なのね。
だったら、お父様はまったく本当のことを言ったのではないかもしれないけれど、
でも、嘘を言ったわけでもないと思うわ。
あのね、まだ、ヤドランカから見れば神話というのはただのお話…
ご本の中の物語とおんなじように見えるでしょうけど、でも本当は違うのよ』
『あれはね、その人たちの歴史なの。
ずうっとずうっと、いろんな場所、いろんな時に語られていく内に、
少しずつ形を変えていった、「ほんとう」のお話。
だからね……うそみたいに不思議なお話でも、少しずつ開いていけば、
本当の本当が、きちんと詰まっているものなのよ』
『知ってる？　そういう"言葉"は、沢山のものを抱いていて、沢山の人が知っているから、とってもとっても強い呪文になるのよ。
あなたの好きな詩やお話よりも、ずうっと長い間、ずうっと沢山の人に大事に大事にされて、語られ続けてきたのですもの』

『…先生の村にも、そういう「ほんとう」の入ったお話は、あるの？
それが、先生が一番大事にしているまほうを……使うための、じゅもん？』

わたしの問いに、先生がどう答えたのかは覚えていない。だけど、あのときの笑顔は今でもはっきり覚えている。
そして先生の使える一番強力な魔法は結局――まだ、教えてもらっていない。
わたしには、わたしが一番よく触れている、トート村の成り立ちの物語が…きっと、一番重要な呪文になるだろうから、と。
借り物の、先生の村に伝わる神話では、その力は発揮できないだろうし、また、効果も変わってくるだろうから…と。
だけど、わたしは。
……………まだ、"わたしの村に根付く「ほんとうのほんとう」の物語"の全容を、知らない。

さすさす。おでこを撫でてみる。
幸い痛みは感じなかった。

名を呼べば、かばんにしまってあるインクビンの中から、白い光が飛び出してきた。
くるくる、くるくる、羽根ペンとそれを持つ右腕に巻きつくように、白い光がまとわりついて…やがて、先端にすべての光が集まって。
羽根ペンの先が真珠色に光るインクに漬けたようにきらきらと、呪文を唱えられるのを待っている。

　将来はお菓子を作る人になりたい、と言っていた彼女だから、詳しいのは当然かもしれないが。それでも、感心したように呟いた。
　うっとりした顔も、どこか輝いているように見える気がする。

　エユプの周りをくるくる回られたり、消えたり、ウルヘアは思い切り遊ばれてた。
　それを見て、くすくす笑ったりなんかして。

　不服そうな鳴き声はさらりとスルーしていた。

　何だかより楽しみになった気がする。小さく笑みを浮かべた。

　と訊きつつも、言葉とは裏腹に諌めるような感じは無い。誇らしげな様子に、くすくすと笑った。

　不意に褒められて、何となくばつが悪そうに問い返した。
　穏やかな口調で問われ、続いた言葉に、暫し黙り込む。

　考え過ぎかしら、なんて苦笑い。

　渡されたケープの素材を改めて確かめるよう、優しく伸ばしたり、大きさを確認していた。
　それから、こくりと一つ頷いた。

男の指に嵌る指輪から、不穏な気配が漂い始める。

鞄から飛び出してきたエンブリオが、くるくると回る。
回る。
回る。
２人の周りをひと回りするたび、翠の風のように透き通ったその姿が、少しずつ伸びてくる。
まるで影のように、長く、長く。
風が吹き上がる。
髪を揺らす。
ケープが巻き上がる。
たまご色の羽毛があたりに散った。
２人に並ぶように、いつの間にか並ぶ影があった。