それはある日のこと、ナナシが湯屋の営業前に湯の用意をしている時。
張ったばかりの湯の水面に赤い赤い花びらが浮かんでいた。

そう疑問に思い、自身の行動を振り返るが思い当たる行動はない。
その花びらは露天に植わっている草木の花でも、自身が生み出せる花でもない
この湯屋では初めて目にするものであった。

そして拾い上げて手に取り見ればふわりと、以前話をした”じゅり”という少女の気配を感じる。
ソレを感じた時、ナナシは少女に何かがあったのだ…と悟る。

二度目の再会をした時、ナナシは少女が人間ではないことを聞いた。
性質が精霊である自分に近いのでは…という話をした。
精霊は…少なくともナナシが知るものはその生を終えた時、
その性質を象徴とした物を遺し、消える。

ナナシはそう、小さく呟くと花びらを手で包み込み湯屋の庭の奥…最も自然に溢れている場所へと埋めて小さく標を立てる。

そして以前ジュリの目の前で飲んだものを埋めた場所へと注ぎ、ネクターの花を添える。
その液体は湯屋を利用した客が英気を漲らせ、必要以上に溢れた生命力を掠め取り濃縮したものだった。

そしてナナシは何事もなければその場を離れようとする。

仮面にもはや言葉を返すこともなく、つと立ち上がって辺りを見回す。
そうして辺りになにものの気配のないことに眉根を寄せ、
再び動かない樹里の元へ屈み込む。

その頬に指が伸びる。しかし人形のように横たわる身体に触れることは躊躇われ。
棺の淵に肘をつき祈りの形に手を組むと、目を閉じてそこへ額を寄せた。

朝ともなれば冷え込みが厳しくなっていく季節の折、
レンガ造りの壁にもたれかかりながら露店で買ったお茶に口をつける。

メルンテーゼで知り合った者に聞いて回った秋月が見出した一つの答え。
力が漲る場所。その中でもネクターと縁がある場所。
ネクターが新王パラダイスに独占された現状。
その最中に土地を利用してジュリへの力の安定供給の道が見え始めていた。

雲がまばらに日差しを覆う空を見上げていた男の視界に赤いものが写る。
大きく、赤が際立つ花弁。
自分の元へ誘われるように舞い降りてくるそれへ無意識に手を伸ばす。

肝心の情報を受け渡すための合流地点を決めていなかったことを思い出し、
大きく溜息を吐きながら、彼女に協力を約束した情報収集の結果にも頭を掻きむしる。

手を振りやってくる小さな老人。
その後をついて歩く、二つの大きなずた袋を担ぐ赤い巨体。
二人を認めるとお茶を飲み干し壁から背を離す。

左手には先ほど掴んだ花弁。それを大切に胸ポケットへ仕舞い、
紙製の容器を握りつぶすとポケットにねじ込み歩きはじめる。

二人の仲間と共に手探りでも動き始めた男は、ジュリの身に起きた出来事を知る由もなく、
間もなく潰えるであろう希望に思いを馳せ、知らず厳つい表情を綻ばせていた。

狼姿で二人の争っている場に駆けつけ素早く人型に戻り庇おうとした正にその瞬間、目の前で愛しい少女の首が落ちていく――――――



その首を受け止めようと反射的に手を伸ばすと、少女の身体ははじけて赤い花びらとなり宙を舞った。
舞い上がり、やがて消えていく花びらを目を見開いて見上げるリオンの手の中にふわりと落ちる一枚の赤い花びら。




スローモーションのようにゆっくりとした一連の出来事には一切の現実感がなかった。
そう、まるで悪い夢でも見ているかのように。

手の中の花びらに語りかけながらそっと両手で包んでに抱くその表情は、穏やかで慈愛に満ちたものに見えただろう。
と同時に、少年の身体から無数の蔓がしゅるしゅると音を立てて勢いよく伸び始める。

やがて少年の身体を基点に成長し、大きく葉を茂らせたその蔓には赤い花が次々と咲いてゆく。






そう、まるで先ほど少女が散らしたのと同じような赤い花が。