エヴォルの地下室から脱出し、《ブルークロス》メルンテーゼ支部へ出たラフィン・F・コッポマン。
　彼女は自分の目を、疑っていた。

「誰も……居ない……？」
　そう。研究所内部から応接窓口まで、人っ子一人そこには居なかったのである。
　それどころか、まるで“最初から誰も居なかった”かのように実験結果や資料は運び出されていた。

　――《人造始祖開発計画》は、一揆の発生を前提としてメルンテーゼ全土を実験場にするという大規模なものである。
　その内容こそ表沙汰に出来るものではないが、研究員やそれを補助する事務員、襲撃に備える傭兵などかなりの人数が動員されているはずだ。

「最悪、腕の一本や二本は失いながら脱出するつもりでいたのだけど……、これは――罠かしら」
　ラフィンがそう考えたのも無理からぬこと。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　エヴォル
　何せ自分は既に、計画の最重要人物である研究者を殺害しているのだ。
　こちらの行動は割れていて、それ故に非戦闘要員を避難させるという可能性は十分に有り得る。

「それにしては、幾ら何でも対応が早過ぎるけれど――」
　――傭兵か研究員の中に、大規模な転移魔法を扱える者がいるのだろうか。
　ラフィンは周囲の様子や、足元に呪文が記していないかを注意深く観察しながら一歩、また一歩とその歩みを進めていく。

「……？」
　そんなラフィンの目に留まったのは、一枚の張り紙だった。


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　計画は既に最終段階☆彡
　やることもないし、危険だから組織のみんなには避難して貰ったよ！(・ω<)

　始祖を探しているなら、王都へ向かうと良いんじゃないかな＾＾



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「――やられたッ！？」


　その時ラフィンは初めて、エヴォルが自分の死すらも勘定に入れていたことを知った。


　　　　　†

　ミラルカ・ハウダニットは、ここに来て大いなる疑問を抱くことになった。
「リリス、一つ確認しておきたいことがあるのだけど」

　その神妙な表情から、只事ではないことが分かる。
　思えばミラルカは先日も、自分の呼び名に拘っていた。驚く程様々なことが有っただけに当然ではあるが、色々と悩むことがあるのだろう。出来るだけ軟らかに、余り落ち込ませぬような回答を心掛けよう――リリスがそう結論付けた後、ミラルカはゆっくりと口を開いた。

「僕って本当に、男であってるんだっけ？」
　確かに女装は似合いそうだけど。
　リリスはそんな言葉を飲み込むのに、二十三秒の時間を要した。
「……、え、えぇと？」
「いやさ。僕の過去――かどうかは分からないけれど。ラウラさんの所でメイドとして働いていた“ミラルカ”は、当然女性だった訳じゃない？」
　女装でなければね。
　リリスはその言葉を飲み込むのに、今度は4秒の時間で済んだ。
「あぁ、そういうことね。少なくとも私には、彼女は女であるように視えたけれど」
　一度ミラルカの体内に吸収され、エンブリオとして同化した経験のあるリリス。彼女はミラルカがこれまで見てきた記憶達を、既に把握しているのだった。

「で。青竹色の帽子の男――ダンテック・ノエルも、正体はエンブリオだから性別ってものは無かった訳じゃない」
「……、そうね」

　ノエルの奴に関わるのは辞めろ。彼奴は不幸を呼ぶ

　あの時リリスにそう言ったフラウは、きっと既にノエルの正体に気が付いていたのだろう。
　ダンテック・ノエルが人間ではなく、普通の吸血鬼でもない。
　殺されることで初めて能力を発揮することの出来る、強制契約エンブリオであるということに。

「僕の中にいるカーミラは、ノエルの影響を受けている」
「えぇ。一目見て分かったくらいだもの。格好だけじゃない、あなたの体内に流れる魔力の向きは間違いなくノエルのそれよ」

「人間の女性であったミラルカ。空想上の女吸血鬼であったカーミラ。そして性別の存在しないノエル――、この中に、男であることを示す材料は何一つとして存在しないんだ」
　リリスはミラルカの腕を這いながら、「なるほどねぇ」と納得の意を示した。

「ねえ、リリス。僕は本当に、男なのかな？」
「試してみる？　私の躰で」
　艶めかしく細い舌を伸ばすリリス。
「いや、蛇に言われても」
「あん。いけず」
　甘い声を漏らすが、蛇がくねくねと腕の上で体を揺らすばかりである。
「…………」
「……この肉体は中々不便ねぇ。……ま、あなたの性別は確かに、一般的な男性と同一のものだから安心なさい」
「あ、良かった」
　これまでの常識が覆されずに済み、思わず安堵の息を漏らすミラルカ。

「夜中寝ている時に隅々まで調べたから間違いないわ」
「………………」
「ちっとも気が付かないんだもの、つい」

「あー、そっかそっかー！　僕は男だったんだね！　でも何故だろう不思議だね！」
　ミラルカはリリスの言葉の後半を、聞かなかったことにするようだった。

（でも、本当に不思議だわ。……カーミラが実は男として設定されていた？　ううん、それならローラ・ピットに“お姉様”なんて呼ばせるはずがない――）

「まだ、ピースが足りないみたいね？」
「うん。僕はその為は、手に入れなきゃいけないものが有りそうだ」
「……？　何を手に入れようって言うのかしら」


「シェリダン・レ・ファニュ。全ての始まりである書物、『吸血鬼カーミラ』だよ」

あなたの目の前には、着物を着た少女が居る。ただし、二人。

しかも、あなたは見てしまった。その二人の少女が、一人の少女が分裂するようにして出現する所を。

すらりと刀を抜き、あなたの方へと向ける。

ゆらゆらと刀を揺らしながら、そう笑う。