フェルハト=アリ=テミルジャンは、職人の世界【ウォートフラック】、
クイルッカル鉱床にほど近い村に生まれた。

彼の父親であるアリ=アッバス=テミルジャンは、村一番の腕を誇る刃物職人であった。
フェルハトもまた、村の子供達の中で一番器用で、跡継ぎは全く問題ないとされていた。



また、二番目に器用だと言われていた子供が、ベキール=Ｍ=デスタンである。
彼の父親は刃物ではなく、パン職人であったが、
ベキールは二男であったため、どちらにしろ彼は家を継がない。

ベキールには兄の他に、姉と妹がいた。
妹の名は、エミーネ=デスタン。

ベキールは、一歳差のこの妹をあまり可愛がらなかった。
大人たちの見ていないところでは軽い暴力を奮うこともあった。

彼は、妹が、自身がライバル視しているフェルハトと仲が良いことを嫌っていた。

そんなこととは知らずに、彼女をフェルハトが庇うことは度々あった。
そうして段々と溝 ──子供らしい溝ではあるのだが── は深まっていった。



ある日ベキールは、エミーネが銀色の花の髪飾りをつけているのを発見する。
フェルハトが自分で加工して、彼女にプレゼントしたものだった。
彼女は言わなかったが、ベキールにはそれが分かった。
エミーネから髪飾りを取り上げると、岩場にある暗い洞窟の奥に向かって思いっきり投げ込んでしまった。

彼女はそれを取りに行こうとするが、少し中に入ったはよいものの、
暗くて先が見えず進めなくなり、さらに足場が悪く出口に戻れなくなってしまった。

彼女が困り果てていた所を、探しにやってきたフェルハトが見付ける。
彼は事情を聴くと、じゃあ今度はもっと綺麗に作るから待ってて、と笑った。

彼女を引っ張り上げようとしたが届かないので、自分が中に入って彼女を押し上げることにした。





───余談だが、ウォートフラックには山が多い。
分割世界事典より「地理」の項目を参照すると、
スィヤーファドルト山などでは火山活動が活発で、周辺には地震も少なくない。
そしてその他の地域でも、地震は少なくないのであった。






地震が起きたのは、彼女を無事に外に押し出し彼が自分も上がろうとしたまさにその時であった。

岩の洞窟は其処まで脆いわけではないはずだった。が、たまたまこの時、崩れた。


岩が崩れる大きな音がしたのは一瞬で、直後に暗闇に飲み込まれた。

裂けるような焼けるような痛みを感じたかも知れない。
愛しい子が悲痛な声で自分の名を呼ぶのが聴こえたかも知れない。
どちらも気のせいだったかも知れないが──いずれにせよ、彼の意識はすぐに途絶えた。



















彼が意識を取り戻したのは、自宅のベッドの上だった。




近くで家事をしていた母親がすぐに気付いてやってきた。
ぼんやりする頭で、自分がどのくらい寝ていたのか訊ねると、一ヶ月も目を覚まさなかったと言う。

母親は、本当に良かった、貴方が生きていて良かった、神様ありがとう、と嬉しそうに泣いた。
泣いた。そして、泣くのが止まらない。
さらに、神様、ああでも、神様どうして、と、喜び以外の感情が混ざり出した。

彼は、母さんどうしたの、と。心配かけてごめん、でも俺生きてるよ、と。
ベッドのに顔を埋めて泣きじゃくる母親の頭を撫でよう手を伸ばした。



手を伸ばそうとした彼は、自身の右腕の肘から下がなくなっていることに、その時初めて気付いたのである。







大岩の下に挟まれて切断する以外にはなかったのだという母の言葉は、
果たしてこの時の彼の耳に届いていただろうか。
仮に耳まで届いていたとしても、頭には届かなかったであろう。



彼は、涙を流すこともなく、ただ茫然としていた。
呆然と、利き腕があったはずの場所を見ていた。







母親が泣き止んだ頃、彼は呆然としたままぽつりと、エミーネは、と訊ねた。
あの時近くにいたのだ、彼女に怪我はなかったのか確かめたかった。



しかし、帰ってきた答えは、予想とは全く異なるものであった。

村一番の刃物職人の長子を負傷させるというのはとんでもない事件である。
村内で爪弾きにされる前に、彼女は自身の両親の手で即刻、
都市部の金持ちの家に奉公に出されていったというのであった。





──かくして彼には。

自分の誇りであり【職人の世界】においては自分の価値の全てとも言える利き腕と。
絶対に自分が幸せにするんだと、何に替えても幸せにしようとした最愛の人を。

両方同時に失ったという事実だけが残されたのである。












その後、彼は血の滲む様な努力を重ねた。
左腕一本で、今までと変わらぬことが出来るようにと、
来る日も来る日も修行に明け暮れた。

実際、片腕でも日常生活には全く困らないレベルに彼はなった。
刃物作りにおいても、人並み以上までに戻った。
これならば父親の跡を継ぐことができると思った。

父親の後継者になることが決まったら、
堂々と彼女を迎えに行こうとずっと考えながら修行をしてきた。





そんなある日、彼は父親と母親の会話を耳にする。


なんと、驚くべきことに。驚くべきことにだ。
父親は息子を後継にせず、弟子をとるというのだ！


昔から夫に一切逆らわない従順な妻であった母が声を荒げるのを、フェルハトは初めて聞いた。
貴方はどうしてそんなことが言えるのかと。
あの子があれからどんなに努力してきたのか、一番見ていたのは貴方でしょう！と。


それに対する夫の答えは淡白な物だった。
「努力しようが何だろうが、隻腕で俺の後継は務まらない」と。それだけ。

母親が二の句を継げずにいると彼は、女の分際で口を出すな！と一喝した。




フェルハトは、物陰からそれを聞いていた。

父親が自身の代わりに後継者にすると言ったのは、かつて村で二番目に器用と言われたベキールだった。

自分が利き腕を亡くしてからは、一番器用なのが彼になったのだ。人選としては当然と言える。


だが、彼は。間接的にとは言え彼は。

自分が片腕を失う原因を作った人物であり。

エミーネが村を出る原因を作った人物である。


その彼を。

自分の代わりに。


その彼を後継にするというのである。


────実の息子である自分の代わりに！









アリ=アッバス=テミルジャンは、仕事以外のことには何ら見向きもしない男で、
息子だからといって一緒に遊ぶなどした記憶はフェルハトにはない。
だが、彼が自分に仕事を教える時は、情熱をひしひしと感じていた。
自分は期待されているのだと、愛されているのだと、確証のようなものがあった。



そしてフェルハトはこの時初めて、それが間違いだったことを悟った。

父が──いや、この男が愛していたのは「息子」ではなかった。

「村で一番器用な」「自分を継げる腕の持ち主が」愛されていただけの話であった。











……それから程無くして、彼は家を出、荷馬車に紛れて中心都市バザロスアに向かうことになる。


なお、去り際にナイフを一本父親に向かって投げている。

それは父親の利き腕をすれすれで外れて後ろの壁に刺さったが、
彼は笑いながら、「確かに俺に右腕があったら絶対に外さなかったよ」と言い放ったという。











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