校正術士の魔術は、あくまでも分割世界の規則に縛られる。

　“物語”があろうとも、術士が読めぬ表記であれば再現することなど叶わない。
　“相手”がわたくしの言葉を信仰しなければ、何の意味も成しはしない。　

　だからこそ、死者は生者へ変えることは出来ない。
　肉体と魂を持つ者は、誰であれ“自分自身であること”を主張する。
　この血肉に刻まれし、幾年も枝葉を広げた系統樹は、他の誰かに置き換えられることを拒絶する。

　与えられた十数年の孤独を以て、完璧に読み解いた人狼達の物語を語ろうとも、
　今は亡き彼らの肉体の他に、それを聞き入れてくれる者は居なかった。

　エンブリオという、何のしがらみを持たぬ子供達を除くなら。








　愛しい人。
　夫の遺品は存在しない。

　この世に二人しか居ない愛したひと。
　彼と共に、わたくしの手の届かないところへ旅立っていった。
　彼の名が刻まれたドッグタグは、もはや――おそらくは――否定の世界の灰となって消えている。

　愛しい人。
　夫を構築する物語はこの世に存在しない。

　サンセットジーンが存在しえぬ物語を読めぬように。
　校正術士の魔術を以てしても、存在しえぬ物語を再現することは出来ない。
　校正が自分で物語を描くのは、あきらかに規則から逸脱する。
　それでも、だ。
　例え法外な対価を支払うことになったとしても。
　死を踏み越えて、貴方に伝えることが出来れば、他には何も要らなかった。

　この心は、貴方を失ったその日に壊れている。
　もはや失うものは何も無いのだから。


「クリストフ、起きて頂戴。皆が貴方を待っているわ」


　呼びかけに応じるように、煉獄へと続く地獄の門は閉じてゆく。
　数多の死者の群れを飲み込んで、不死者の王すら地獄へと引きずり込んで。

　足音が響く。
　僅かに香る白檀とインクの香り。
　わたくしの両肩にそっと触れる手の平は、僅かに獣皮の感触がする。

「シドニー」

　一度も忘れたことのない、艶やかなバリトンが耳を擽る。
　手の平は肩を辿って降りてゆく。骨が砕けてしまうほど、強く、強く、抱きしめて。

「もう一度、私の名前を呼んでくれ。私の名を呼ぶ、君の声が好きだ」

　夢から覚めたその時のようにぽっかりと瞳を開ける。
　わたくしは未だ夢の中にいる。

「何度だって呼ぶわ、クリストフ」

　この夢のような物語が続く限り、この声が続く限り、何度でも。

シツジが割って入ったその瞬間。
老貴婦人を守るように、茶毛の狼が躍り出る！

日に焼けた書籍の匂いが空間を満たす。
周囲に浮かび上がる錆浅黄色のバイナリは執事の姿を描き出す。

この老貴婦人、なんだかノリノリである。
指先で虚空に文字列を描けば、数多のオオカミたちが群れを成して現れた！