突然。そう、突然『引っ越しよ』などと言い出す彼女の言葉に拒否する暇も与えられず。
あまり遠くではないというその言葉を真に受けて普段とさほど変わらぬ軽装のまま向かった先へは、結局、数日間を要して陸地で繋がれた隣国へ移動する羽目になり……確かに距離で言えばそこまで遠い所ではなかったのは事実だけれども。

着いた所はやはり街から幾らか外れた所の、殆ど人が通る事のないような場所に物淋しく構えられた……まるで人が生活できるとは思えない程空っぽな掘っ立て小屋で。
こんな事になるのであればもっと生活用品を持ってくれば良かったなどとぼやいた私を見て、呆れた様子の彼女に連れられて街へ降りてくることになったのがつい数刻前。

通貨の両替をしなくてはとか、今日の夕飯はどうしようとか、そんな取留めのない話をしながら辿り着いた街はところどころに緑を残しながらも石造りの建物がずらりと立ち並ぶ、まさに大都会だった。
海沿いに位置するこの街は貴族達にリゾート地として利用される事も多く、周囲には高級宿が沢山存在しているとは彼女の曰く。そこかしこに見受けられる屋台から醸し出る香りの中で、微かに感じる潮の匂いと、行き交う沢山の人々が生みだす喧騒が街の雰囲気を象ってくれる。

「ここへ来るまで辺りは自然ばかりでしたので、どんな田舎かと思えば……相当立派な街ですね」

時々建物の隙間から覗く事のできる港には、大小様々な船が数多く停められている。

「山が自然の国境になっているからね。実際の所は可住地も多ければ秀でた産業を抱えているし、経済成長も続いている。ここだけではなく国全体として観光客も多いらしいわよ」

彼女の言葉に相槌を打ちながらも、私の視線とその意識は常に忙しなく周囲を泳いでまわる。

「あの、ところであの屋台はなんですか？」

「ワッフルね、焼き菓子よ。歩いていれば他にも色んな甘味の屋台が見れるはず」

「へぇ〜、じゃああれは？」

「貝をワインで蒸した料理ね。屋台とはいえ割と本格的な食事を提供しているものも多いわ」

「ねぇあれ、遠くにおっきな建物がありますよ……もしかしてお城ですか？」

「えぇ、そうね。この辺りの領主が住んでいる筈だけど」

僅かに上ずった声で質問を続ける私に反して、彼女はいかにも興味無さげといった態度で淡々と答え続ける。

「詳しいんですね。以前にもここへ来た事があるんですか？」

「ないわよ。貴方は向かう先の事を予め調べておくという事をしないのかしら？」

「……勝手に連れて来られただけですから。『行き先も告げられずに』」

語気を強めて言い返してみるものの何知らぬ顔で聞き流された事に少しだけムッとして、彼女の居ない方向へと視線を逸らす。

「あ、見て下さいよこれ！彫刻ですよ、鷹の！」

そこでふと、たまたま目に写ったそれに、先ほどまでの怒りなんて途端にどこかへいってしまって。
すぐ横のショーウィンドウの先に飾られた銀製の彫刻を指さす。そんな私の様子に、彼女は肩を竦めてみせて。

「……貴方でも子供みたいに燥ぐ事ってあるのね」

その言葉でふと我に返って、少しだけ恥ずかしくなる

「……いえ、私は普段通りですが」

「そ、ならいいけど」

呆れたような苦笑を浮かべながら、一人早足に歩き出した彼女の後ろを急いで着いていく。

「でも私は――別にいいと思うけどね？」

「……何がですか？」

「あなたって今年でいくつになったのかしら」

「数えて十と七つです」

「ほら、子供じゃない」

「子供じゃありません」

「子供よ」

「違います」

「そうやって、変なとこばっかり頑固なんだから」

聞かせるようにポツリと小さく呟きながら、目の前を歩いていた彼女がこちらへと振り返ると、突然私の右手を掴んできて。

「……あなたのその主張はね、ジゼル」

彼女がいつの間にか手に持っていた『何か』を私の右手の中に握らせると。

「こんな事で興奮して、注意力が散漫になっている内は認められないの。よろしくて？」

小さく微笑んで私の頭を軽く撫でると、くるりと体を翻し再び歩みを進めだす。

「……だからそういうの、やめてくださいってば」

やれやれ、と溜息を吐き出しながら彼女に掴まされた何かを確認する。

「……これ、私の財布じゃないですか！」

私の怒号に彼女は振り向かぬまま、手の平をひらひらと振って返す。その顔はきっと笑っているのだ、私にはよくわかる。

「この辺じゃあスリも多いらしいわよ。浮かれるのも程々にね、小鳥ちゃん」

「もぉ〜……」

過剰に注意をしていれば心配性だとバカにして、少し気を緩めると浮かれるなと嘲笑い。
そうやって私で遊んで、一人楽しんでいるのだ。そういう所はそう、とても、嫌味な人。

再び小走りで彼女の後を追いかけて、今度は横に並んで進む。上着の内側にしまい込んだ財布をしっかりと握り締めながら。
そうしてまた暫く道を歩き続けて、周囲を眺めながら、この街の色んな話を聞いたりもして。

「ところで……」

「今度は何を見つけたの？」

「いえ、この国の方々は政治というものに対する関心が強いのでしょうか？」

歩きながらも周囲を見回すと、恐らく政治家なのであろう人物の名前と共に何かの文章を書きしたためられた広告や張り紙が頻繁に目に映る。
時折通りで販売されている新聞紙にもきっとそうした内容が沢山敷き詰められているのだろうか。

「そうなるのかしらね」

中には一般個人や団体が作ったのであろう何かへの賛同や反対と言った趣の立て札が見受けられる事もある。過激な言葉が用いられている場合も少なくない。

「良い事だとは思いますが、しかし、なんというか穏やかではないですね」

「……ふむ」

彼女は足を進めつつも、不意にいかにも考え事をしているかのような仕草を見せる。
この動作は真面目な話を始めようとする時の彼女のクセなのだと、私はよく覚えている。

「この国は割と長い事、社会問題を抱えていてね」

左手の人差し指をこちらの顔へ向け、まるでトンボを捕まえるかのような仕草で小さくくるくると回しだす。

「昔から職を求める移民を多く受け入れてきたそうよ。国の発展のためにね」

「へぇ……」

「ま、でもそう上手くいくものでもないってことね」

左手の動きをぴたりと止めると、その指先を今度は天へと向けて、学校の先生が教えを説くかのような格好になる。

「あまりに人口が増えすぎた。今度は純国民を含めた住人達の失業率が大きく跳ね上がってしまったし、平均的な生活水準の低下……飢餓や住居の問題も出てくるわ。当然不満の矛先は移民達へと向くわね」

「つまり……他国からの移住民達に対する差別が発生する？」

「そ。この国が他国の文化に対して肯定的ではない側面もあるけれどね。そして当然差別された側にも不満は溢れる。不等な扱いを受ける事が多ければ犯罪に手を染めるものも多く出てくるわ。後はもう悪循環よね」

移民による犯罪率とそれによる悪評、悪印象。軋轢が深まっていく事は安易に想像がつく。

「それに差別があれば同じ国内にも関わらずある種の異文化が発生してしまう。簡単に言えば肥大化したスラム街のようなものよ。それはここを代々故郷にする人々にとって恐怖でしかないでしょうね」

「と、なれば……彼らの排斥運動が始まる？」

「今はそうした政策の肯定派と否定派の対立真っ直中って訳ね」

「なんだか、大変ですね」

「まぁでも何かしらの問題ってのはどこも抱えているものよ。そういう事を考えないで済む環境っていうのが特別恵まれているだけ。それにしたって、明日には誰しも我が身かもしれないし？」

「世知辛いですね」

私の感想になぜか彼女はクスクスと笑い出す。おかしな事を言った訳でもないのに何故か恥ずかしくなってくる。

さて、と呟いた彼女は左手でパチンと音を鳴らし、それを合図にこの会話は一区切りを終える。
そうして私は意識を周囲の観察へ戻しながらも、再び二人で歩き出す。そのまま暫く進んだ所でふと、ある考えへと辿り着いた。

「――あれ？」

「今度はなぁに？」

「という事は、この辺りで暮らすようになれば私達も『そういう目』で見られる可能性があるって事ですよね？」

私の質問に、彼女はニコリと微笑んで。

つまり――つまり、ロクでもない時に、ロクでもない所に連れて来られたという事なのかもしれない。
彼女は私を困らせたいに違いないと勘ぐる事は、一体これで何度目になるのだろうか。

「悪い方向への覚悟はしておくべきよね」

「えぇー……」