この城は腐敗しかけた果物の匂いが満ちている。あの日、…あの、はじめてメルンテーゼにやってきた時に己の身体からたちのぼった香り。死の、匂い。

死の匂いのことを思う。死。彼女にとって死は恐れるべきものではない。死は、彼女の世界では醜さと同一ではない。目の高さに掲げた爪には今日も華やかに花が咲く。赤に、蒼に、黄に……。美しく伸ばされ、整えられ、飾られ、そして何よりも甘い香りのする。朝の目覚めに、水に触れるたびに、夜の眠りの訪れる前に、その爪たちは慈しまれる。朝に、昼に、夜に、その折々に相応しい香油を塗りこめられながら。そして時折には、オルガの手の中に委ねられながら。戦いの吐息さえも地に落ちるその夜に、彼女の白い手は、同じくまた白を宿す手の中で静かに、冷たく横たわる。ネイルベッドの幅、爪と肉とあわい、作り物のような硬質さの上に撫でられる湿度がある。その時間を彼女は酷く気に入っていた。彼女と、両の小指に宿る、淡い紅の残り香と気配、宿されているものは彼女がかつて司り、そして今も振りまく雲の結晶、甘いくちづけと共に贈られる片翅の蝶、その匂い。

階段を昇り現れた道は変わらず静かだ。僅かばかりの空気の動き、まばらに敷かれたままの絨毯、妖精たちのあえなく消える叫び……誇りを被った調度品までもが、そっくりそのまま階下の模倣のようだと彼女は息をつく。外に出たい気持ちはある。彼女は自分自身の美しさが最も輝くのは光の中に置くときだと信じていた、憂いもまた彼女に艶良く添えられる水であったにせよ。それでも彼女の息は甘く白く、宙に放たれて散っていく。……

それは鏡だった。幾許かの大きな欠けを経てなお、蝋燭の光を受け止めてまたその硝子自体も揺らめいている。彼女の脚は止まり、そしてその視線は己にぴったりと合わせられた。窓の向こうに夜のあり、またここが朝だと微笑むための儀式のように、あの庭で暮らした日々の中でいつもそのように朝を迎えてきたように、旅立ちの日のようにも。変わらないことに安堵する。この3年以上の時の中で変化していない、――彼女にとっての強い意味として、変化していないということに比べればこの数十日で変化をするはずもない、けれど彼女はその事実を当然として受け止めきれない。（もし、花が散れば……）生命を賭して進むこの日々、花が尽きるのが先かネクターが解放される時が先か……。

美しい。今日もまた美しく、今日もまだ美しい。そうだ、（わたしは美しいのだ）、その事実は酷く彼女を慰める。それだけが、それこそがまた彼女のレーゾンデートルだった、騎士に側仕え、己を捧げる姫のように。（タカージュドールにいた時と変わらず美しいだろうか？）詮無き思考が鎌首をもたげた。鏡の中の己が少し挑発的に笑う。（タカージュドールにいた時よりも、美しいだろうか）視線をそらすことは出来なかった。お前とわたしのどちらが美しいのか、誰がそれを裁くのか。己の右肩をノックする指先がある。ひとのものではなく、赤紫に塗られ鋭く伸ばされた爪が酷く高慢に。肩甲骨から漏れた光は、気球の上る様にも広がって、片翅を描き出す。振り返る気にはなれない、鏡の中でたちあらわれたその翼が、今の己に同じように存在していると信じる気になれないのと全く同じに。（リリス、君は）鏡に触れた指先から伝わる古びて失われた熱。螺子は巻かれ己の金の肋骨が巡り始める気配がする。ディオール、彼女を生かすもうひとつの生命の花。もうひとつであり、原初のエンブリオ。彼女をエル・フィガロとして成り立たせるすべての褥。けれどもその力と並び立ち、入り混じることなく彼女の肩甲骨は育ってゆく。どこの世界の物語だったか。（どうして今思い出す）リリス、魔王の花嫁の名であり、原初の女の名。（では、ディオール、お前は？）ディオール、彼女の金色の神、最初の女を生んだ場所を褥とするエンブリオ。鎖に縛られず逃げてゆく女と、従順に従った肋骨から生まれた女。（馬鹿馬鹿しい、わたしはタカージュドールの女だ）タカージュドールの女。どのように生まれ、形作られるのか、誰の唇にも昇らない狂気の世界の。（タカージュドールの）（わたしは、未だ、そして、）（永遠に……？）

打ち付けられた拳は、鏡に罅を、そうして銀の結晶がただゆっくりと彼女の爪先を彩ってゆく