「アウイン…」

「何でしょう、我が君？」

「いい加減解けろ」

「そうは仰いましても…」


　主である青年を抱きかかえるように巻き付いている一角蛇のエンブリオは、困ったように頭をもたげる。
　かれこれもう１時間近く、カサネはこうしてアウインに巻き付かれていた。
　アウインは何だかんだで体を伸ばしきれば10ｍ以上ある大蛇だ。一番太い部分は子供の胴ほどもある。
　そんなのに巻き付かれてしまっては身動きなどロクに取れず、装備品の手入れはもちろん、就寝準備すらままならない。
　双頭の獣は親愛表現だと笑うが、彼らやクレノのそれとは違ってアウインはひたすらじっとしていたがるのも問題だった。


「動けないと何もできんだろ…」

「しかし…それではあんまりに不公平じゃありませんか！」

「…………は？」


　蛇のくせにうるうると盛大に涙を浮かべるアウインの言葉に、思わず間抜けな声が出たのも無理からぬことだ。
　カサネはエンブリオ達に対して、誰かを贔屓していたつもりはない。
　経験豊富な双頭の獣を頼りにしている部分も確かにあるが、それ以上に向こうから懐いてくるのであって、カサネの方からスキンシップを図ることは他のエンブリオ同様さほど積極的ではない。
　クレノにしたって、魔力供給が上手くいくようになってからはほとんど影の中に潜んでいるので、呼ばない限りは寝るときくらいしか出てこないから触りようもない。
　どういうことだと問えば、一角蛇はぐすぐすとおよそ蛇らしくない嗚咽を漏らしながら訴える。


「ニグレド殿とルベド殿は、夜中ずっと我が君にくっついたままです」

「クレノ殿だって、我が君の影の中でずっと一緒…私だけ、仲間外れです」

「……え？何…？……そういう認識なの…？」

「何と！気付いていらっしゃらなかったと?!酷い！酷いです我が君！」

「あだだだだ！締めんな締めんな!!内臓出る!!」


　骨が軋む音が聞こえるほど胴を締め上げられ、堪らずカサネがベチベチとアウインの体を叩けば、一角蛇は目元をカサネの肩へと押し当てて子供のように泣きじゃくる。
　酷い、酷いと泣きながら責められては、エンブリオの心の内を知らなかったとはいえ罪悪感も湧くというもので。


「あー…悪かったよ。泣くなよ」


　よしよしと、人間なら後頭部に相当するであろう部分を撫で、多分背中辺りだろうと思われる腹回りに巻き付いた部位をぽんぽんと軽く叩くと、ぐすんずびびと酷い顔になったアウインがようやく顔を上げた。
　蛇も鼻水出るのか…いや、これエンブリオだからか？などと、口にしたらまた機嫌を損ねかねない感想を胸中に抱きつつ、カサネはハンカチで涙と鼻水を拭ってやる。
　蒼く滑らかな鱗に覆われている頬へと手を添えて、涙に濡れた目を覗き込む。


「いいか、アウイン」


　静かに名を呼べば、アウインはぐすんぐすんとまだ鼻をすすってはいるが、カサネの言葉を聞く余裕は戻ったようだ。
　混乱させて、また泣かれて締め上げられては堪らないので、ゆっくりと言葉を噛み砕きながら口にする。


「気付かなかった俺も勿論悪いが、何も言わなかったお前にも非はあるぞ」

「……そう、なのですか？」

「お前が人間との生活に慣れてないように、俺だってエンブリオとの付き合いには慣れてないんだ」


　双頭の獣も、影に潜む獣も、カサネ自身ではなくカサネの中にあるらしい先祖の欠片に寄ってきた者達だ。
　彼らがカサネに懐くのは、かつての主の面影が色濃く出ているから。
　今はそうでもないと言うが、切欠は間違いなくカサネ自身ではない。
　そして彼らは、あくまでこの世界の“理”に則ってエンブリオという役割に身を置いているのであって、本来はもっと異なるモノだ。

　一方のアウインはこの世界で生まれ育った生粋のエンブリオである。
　何より、カサネが自らが望んで契約を持ちかけた初めてのエンブリオだ。
　異界の住人であるカサネや獣達が知り得ぬ常識を持っていても仕方ないことだが、それを知らされないまま詰られても困る。


「寂しいなら、ちゃんと言え。いつでもって訳にはいかないが、一緒に寝るくらいはしてやるから」


　なるべく優しい声をと心がけ、語りかければ、一角蛇はこくんと素直に頷いた。
　その幼い仕草に、アウインが若いとは聞いていたものの、これは思っている以上に子供なのかもしれないと認識を改める。
　ついでに、今まで思っていてもタイミングを逃していた訂正を入れる機会かと思い至った。


「それとな、アウイン。その“我が君”っての、止めないか？」


　カサネの提案に、アウインはきょとんと首を傾げる。
　しぱしぱと瞬きする様に瞼があることを認識して、あ、やっぱ単に角の生えた蛇じゃないのかと思考の方向性がずれかけるものの、何とか踏みとどまる。


「俺は、そんな風に呼ばれても自分が呼ばれてる気がしない。だから、俺のことは名前で呼べばいい」


　カサネの提案に、アウインは驚き、うろたえた。


「で、ですが！主を名前で呼ぶなどと…！」

「俺は確かに契約上はお前らの主だが、そんな風に呼ばれる習慣がないんだ。正直、恥ずい」

「えええ?!しかし、ニグレド殿やルベド殿も名前では呼んでおられません！」

「あいつらが俺を名前で呼ばないのは、それがあいつらの習慣だからだ。クレノも似たようなもんなんだと」


　カサネは勿論、双頭の獣と影に潜む獣にも同じことを言った。
　けれど、双頭の獣からははっきり拒否されたのだ。

　彼らの習慣では、名前は魂に連なる言葉であり、非常に重要なものであるのだという。
　血肉に加えて魂をも喰らう彼らにとって、名を呼ぶことは獲物を定める行為であるというのだ。
　同族でも名を呼び合うのは互いの魂を喰らい尽くしても構わないと誓い合った伴侶だけで、それ以外は決闘の申し込みに相当するらしい。
　例外的に名を呼ぶのは、捕食対象外の精霊や神獣なんかの類だけ……つまり、彼らの捕食対象には人間も含まれる。

　ゆえに、彼らの種族は人間と契約した場合、決して主の名を呼ばない。
　主が望み、その身を差し出すというのなら話は別らしいが、生憎カサネは彼らに食われてやるつもりはないのでありがたく遠慮願ったというわけである。

　一方の影に潜む獣は、もっと限定的な理由らしい。
　クレノ自身は多くを語らないが、ニグレド曰く『子供の意地』とのこと。
　まぁ、呼びたくないなら無理強いするのも気が引けるため、彼に関してはそのままの呼び名で妥協している。


「……無理にとは言わないけどな。名前の方が気が楽だ」

「気が楽、ですか…？」

「ああ。他人行儀っぽいだろ。特にお前の“我が君”ってのは、そう感じるな」


　溜息を吐く。
　ネクターを介した主従関係があるのは確かだが、カサネの中ではそこまで厳密というわけではない。
　現に、双頭の獣は口では主と言いながらも、子供を見守る年長者のような態度ばかりだ。
　堅苦しい主従関係を望んでいるわけでもない。


「お前が嫌じゃないなら、名前で呼んでくれ」

「……カサネ様？」

「様いらない」

「えぇッ?!」


　おすおずと呼ばれた名前に付いていた敬称を拒否すれば、一角蛇は困ったように怖気付く。
　それに思わず噴出して、励ますように腹に巻きつく背を撫でた。


「ほら、呼んでみろ」

「……か、カサネ…」

「どもった。もう一回」

「……カサネ」

「ああ、いいな。そっちのがずっといい」


　よくできたと長い首を撫でてやれば、一角蛇は照れくさそうに目を細める。


「カサネ…カサネ」


　確かめるように呼んで、蒼い蛇が頬ずりしてくるのをカサネは笑って受け入れる。
　いつもはひんやりとしているアウインだが、今日はほんのり温かい気がした。


「カサネ、あの、あのですね…」

「うん？」


　呼び慣れないのか、やはりまだ緊張の取れない様子で、それでも一生懸命自分を呼ぶ一角蛇に応じてやれば、蒼い鱗の蛇はくねくねもじもじと身をよじる。


「私も、貴方に呼ばれる名前が好きです。貴方が、私にくれた名前だから」


　人間であれば真っ赤になってそうな様相でそれだけ告げると、アウインはそれまでのくっつき虫っぷりが嘘のようにしゅるんとかサネを解放し、茂みの中へと逃げて行ってしまった。
　あそこまで照れられると、こちらまで恥ずかしくなるのだが…となんともいえない間隔に陥りつつ、ガシガシと頭をかく。
　まぁ、無事に自由の身となったのだし、やるべきことをしなければと気持ちを切り替えると、カサネはようやく装備の手入れを始めるのだった。


　……焚き火を挟んだ反対側で主と後輩エンブリオのやり取りをずっと見ていた双頭の獣が、生ぬるい眼差しになっていたのには、残念ながら気付くことはなかったが。










　その日以降、カサネの就寝時にフットチェア代わりのアウインが加わったのは、また別の話である。


　

（――いつもの待ち合わせ場所。今回も、そこに見慣れた忍の姿はなかった）