ずっと笑っていて。

私はね、ルカが笑った顔、好きよ。


ひまわりみたいね。





　ぬいぐるみを抱えて、泣きながら戻って来た彼女──アリシアは、自分達が待っていたことに驚いて、ぼろぼろと大粒の涙を零して泣いた。
　一方は、アリシアが泣いていることに驚いて、慌てふためいたし、どうして泣いているのか、初めは分からず戸惑いもしたが、一先ず宿へ戻り、話を聞くのだとしても明日にしよう、ということにして。
　その日は亭主の作ってくれた夕食を食べ、部屋に戻ってすぐ、アリシアは泣き疲れてしまったようで、帰って来る時に抱えていた、ぬいぐるみ達を大事に、大事に抱えて一足先に眠りについてしまった。


　アリシア頭をシズの手が、そっと撫でる。


「……アリシアが持ってる、そのぬいぐるみ、さ、」

　ぐっすりと眠るアリシアを起こさないようにと、小さな声で。
　ルカが彼女が抱えている、ぬいぐるみ達を見、ぽつぽつと呟く。

「エティエンヌ達、……なのかな」
「姿が無いんだ、そうだろうな」
「……ぬいぐるみ、だったんだ」

　ぬいぐるみがエンブリオとして命を宿し、あの形で。
　だからこれは、あのエンブリオ達の本当の姿なのだと考えて、ルカは少しだけ、俯いた。

「……お別れ、したのかな」
「明日には宿を出るし、帰るんだ。 ……お別れも何も、お前だってそうだろ」
「や、うん、そうだけど」

　お別れはかなしい。
　だからあの時、戻って来た時、アリシアは泣いていたのだと思い出す。
　涙を湛えて潤んだ菫色を思い出して、胸の辺りがつきりとした。

「でも、オレ、レーヴとは、また会える気がするんだ」
「……何だそれ」
「何て言うか、……夢の中で、今までみたいに、会えるんじゃないかって気がしてる」
「……」
「……夢の中なら、ミハウ達とも、……会えない……か、な」

　アシリアの黒い髪を撫でる、もう一方の手で、眼鏡のブリッジを押し上げながらルカを見ると、明かりを消した部屋の暗さと前髪で、その顔が見え難くなっていて。
　まあ、どんな顔をしているかなんて見えても見えなくても大体分かるのだが。

「コトカ、さみしいって言ってた」
「……」
「オレさ、もう、絶対会えないって、どっかで思ってて、だからさ、すっごい、うれしかったんだ」

　またねと言って、彼女は笑った。
　いつかまた、自分達との再会を望んでくれて、会えなくなることを惜しんでくれて。
　「また明日」ではなく、いつ果たされるか分からないような、遠い遠い、小さな約束を信じたくなった。
　笑った、筈だ。
　うれしくて、泣きたいくらいにうれしくて、けれど、笑った筈だった。

「……笑えてたかな、オレ」

　訊ねるように、けれど、訊ねるでもなく、ルカが呟く。
　音は明るく、震えた声。
　緩くはにかむように綻ぶのは口許、透明の雫は頬を伝い落ちる。
　言葉にすると、気持ちがより強くなることは知っていた。
　だから、だからずっと、言わないでおいたのに。

「……さみしい、な　あ」

　さみしい。
　シズが、ルカが泣くのを見るのは、この世界に来て二度目になる。
　本当のところは、ルカがこの世界を訪れて何度泣いたかなんて、それは、ルカしか知らない。
　ルカが泣き虫だということくらいは、シズも知っていた。
　けれど、ルカは人前で泣くのではなく、誰も居ないような、たとえるなら隅っこのような場所でしか泣かないことも知っている。
　泣けないのかも知れない。 泣かないのではなく。 それは分からない。
　誰かの傍に居れば笑うことが出来るのだ。
　誰かが傍に居ると、笑うことしか出来ないくらいだ。
　シズは、ルカにとって、その「誰か」がアリシアなのだと思う。
　少なくとも、今は。

　先に眠ってしまったアリシアは、ベッドの中。
　そのベッドを背凭れに、ルカは床に座り込んだまま、いつの間にか眠ってしまったようだったが、シズはベッドの傍らの椅子に腰掛けて、二人が眠った後も暫く眠らずにいた。
　どれだけの間そうしていたかは分からないが、特に何をするでもなく、ただ、アリシアの頭を、髪を、そっと、そっと撫でることだけは止めないで。

　規則正しい寝息が二つ、耳を澄ませば時計の針の音もまた、規則正しく刻まれていく。
　この時間を、今を惜しむように、ゆっくりと目を閉じた。





「──アンテ、」

　呼び声に呼応して、ルカの手首──ブレスレットが一瞬、強く光を放ったのが目を閉じていても分かる。
　数秒の後、シズが目を開くとそこは宿屋の一室ではなく、切り絵のような、影絵のような青白い森の中だった。
　そこには、自分より先に眠ってしまったルカが居て。
　レーヴもまた、ルカの傍に。

「あ、あれ、……シズ？！」

　どうして此処にと言わんばかり、驚いた顔。
　いつも通りの、ルカだった。

「……こ、ここ、レーヴの夢の中じゃないのか？！」
『僕の夢の中だけど、ルカがアンテを連れて来てくれたじゃないか』
「えっ、あ、ああ、そっか、……？」

　ルカはよく分かっていないようだが、レーヴの声に手首のブレスレットへ目を落とす。
　＜私は此処に居ますよ、＞と、シズには（恐らくレーヴにも）アンテの声は聞こえていて、存在を教えるように、星が瞬くように、きらきらと青い石が光った。

『シズ、アンテと解約する為に来たんだろう？』
「……ああ」

　それが、元の世界へ帰る為の条件だ。
　シズがアンテとの契約を解き、ルカがアンテと契約することで、レーヴとアンテは元の力を取り戻すことが出来る。
　元の力を取り戻せば、エティエンヌによってこの世界──メルンテーゼへやって来た自分達を、元の世界へ帰すことだって出来る、レーヴがシズへ教えたことだ。

『ところで、菫の子は？ 無事かい？』
「……え？」
『ううん。 無事ならいいんだ』
「……」

　レーヴはふるふると首を横に振り、シズを目配せするように見上げた。
　シズの小さな頷きを見留めた後、ルカを──正確には、ルカの手首にあるブレスレットを見上げる。
　すると、ウサギのような姿が揺らめき、青白い炎へ姿を変えた。
　“付加”と呼ばれる力を使う時、モンスターと戦う時にルカが触れ、剣に纏うあの炎はレーヴの炎だ。
　レーヴの炎が触れても問題無いことは分かってはいるものの、肌に感じられる熱に、ルカは思わず、目を細める。
　そして、

「──ッわ、？！」

　金属が金属を弾いたような音を立てブレスレットが壊れ、その破片が足元に散らばった。
　ブレスレットが壊れるとほぼ同時に、頽れるように膝を折ったシズが地面に手をつき、もう一方の手で胸を押さえ込む。
　散らばった破片は命の花、ネクターの無数の赤い花弁となり、レーヴの炎がそれを攫い巻き上げた。

「ッシズ？！」
「……っ、いいから、アンテと……ッ契約しろ、」

　肩を支えようとしたルカの手を払って言い返すシズの声は絞り出されたように苦しげで、一つ息を吐き出すのすら辛そうに見える。
　実際、辛いのだと思う。 おかしいと言えばおかしかったのだ、はじめから。
　元の世界に居る頃からずっと、シズは薬を飲んでいない。
　シズが何かの病を患っていること、くらいしか知らないルカでも、もしかして、と考える。
　自分やアリシアが知らないところで薬を飲んでいたとして、だ。
　そうだとしても、此方の世界に来てからは、どうだ。
　仮に薬を飲んでいたとしても、この世界に来てからはずっと。
　もしかしたら、元の世界に居た頃から飲まなければならない薬を、シズは。

「────ッスエテ、」

　助けを乞うような声だった。
　数日前、シズがアンテに教わったという、レーヴとアンテの、本当の名前。
　渦を巻く青白い炎にネクターの花弁の赤が混ざり、ざあざあと森の木々が揺れる中、ルカの声に呼応し炎の渦が少しずつ勢いを落としていく。
　やがて渦が消え、ふわりと中から降り立つように姿を現したのは、少年とも、少女とも見て取れる外見をした双子だった。
　手を繋ぐ双子の足元にはルカ達と異なり影は無く、その姿も、向こう側が少しばかり透けて見える。
　彼等の姿を見留めたルカは、緑色の双眸を丸くして。

「……レー、ヴ？」
『違うよ、ルカ。 僕達が“スエテ”』
「……スエテ」
『僕達の本当の姿さ。 まずはお礼を言うよ、ありがとう。ルカ、それからシズも』

　言葉を発するのは一方の子供だが、感情か表情を共有するように双子は揃って微笑んだ。
　ルカが笑って返す傍らで、シズは小さく咳き込んで、から。

「……契約は、成功した、んだな？」
『勿論。 いつでも帰れるけれど、帰る時は菫の──アリシアも一緒だろう？』
「当たり前だ」
『なら、鍵を渡しておくね』

　シズの元へ言葉を発しない方の子供が近付いて、シズの手をそっと取る。
　子供らしい小さな、やわらかな手は体温を持たず、寧ろ冷たいとすら感じられた。
　その小さく冷たい手が、シズに鍵を握らせる。
　壊れたブレスレットを思わせる青い石の嵌めこまれた、握り込めるほど小さなものだ。

「……これ、は」
『“元の世界”へ繋がる扉を開く鍵だよ。 ただし、この世界にはもう戻れない』
「もどれ、ない、」
『それに、この世界と元の世界との間に、どれだけの“時差”があるのか、僕達には分からない』
「……」
『でも安心していいよ。 この世界で過ごした時間以上のズレは生じていない筈だから。
　向こうはほんの数時間しか経っていないかも知れないし、きみ達が迷い込んだ場所に繋がっている』

　他に何か訊くことはあるかな、と、子供二人は首を傾ぐ。
　シズは小さく息を吐き、緩く首を横に振る。 立ち上がろうとしてよろめいたのを、今度こそルカが支えた。
　ゆっくりと立ち上がりながら、ルカが口を開く。

「……若布おにぎりって、持って帰れる？」
「……は？」
『勿論。 ああ、でも、武器や防具にはこの世界の魔力が宿っているから、無理だろうな』
「ん、……分かった」

　ルカが頷いて、子供二人も小さく笑みを返した。
　鍵を手渡されたということは、これで、この夢は解けてしまうのだと思う。
　すると恐らく、スエテとは。

「あの、さ、スエテ」
『どうしたの、ルカ』

　スエテは言った。
　一度、扉を潜ったなら、この世界──メルンテーゼには戻れないのだと。

「……オレ、解約しないからさ、」
『……』
「また、……また、夢の中で、会えたりしない、かな」

　ルカの声に、子供二人が笑みを深める。


『────　　　　　　　　　』




＊

＊

＊





　シズがスエテから受け取った鍵を手に、扉の鍵を、錠を外すように回すと何も無かった筈の空間に、あの森と同じ色をした、青白い扉が現れた。
　次の瞬間、手にしていた鍵は粉々に崩れてしまったが、扉は独りでに広く開け放たれ、その向こうには白み、霞んで見えこそするが、“元の世界”の、自分達が居た筈の公園が見えている。

「──アリシア、」

　菫色を、きらきらと輝かせて扉の向こうを見詰めていた彼女の名前をルカが呼び、手を取った。
　アリシアはふわ、と嬉しそうに、小さく小さく微笑むと、ルカと繋いだ、もう一方の手で傍らのシズの手を取る。

「シズ、具合は──」
「……平気だから、心配するな」

　その菫色を曇らせるわけにはいかないのだ。
　そうやって笑ってくれていたら、十分だからと、決して言うことはなく。
　すい、と、シズがルカへ目を向けると丁度、目が合った。
　
　緑が、笑う。
　仄暗い金色も、頷くようにゆっくりと瞬いて返した。


「……せーのっ、」


　扉の向こうへ、踏み出す。


　後ろはもう、振り返らない。

攻城戦を済ませた後だ。

元の世界へ帰る為に宿で荷物を纏める手を止めて、テーブルの上にあった本を手に取る。
ぱらぱらと捲り、綴られた文字を何頁か目で追い、ゆっくりと本を閉じた。

少し躊躇った後、その本を荷物の中にそっとしまう。

髪を撫でる手が零れ落ちる。

駆け出す少年の背を前に、瞳で追い掛け。
――花冠の元へ走り行く彼の後ろを、緩やかに付いて歩き続けた。

ありがとな、と、
彼の目には些か眩しい笑顔と共に告げられた、
ジャンルカの、言葉に。

一度返しかけた否定を、けれど呑み込んで緩く首を振り、
それから、

それだけで締め括って、
それ以外、必要ないと思えた。

説明から、想像すればするだけ、二人とも圧倒されたような顔をして。

笑みを深めたミハウとは対照的に、イェジはぶっきらぼうにつんと顔を逸らした。
けれど、尻尾はぱたぱたと落ちつかなげで。

はっとして、ルカの境遇を思い返せば、気まずそうな色を表情に浮かべ。

呟きに、少し考えるようにしてから、ぽつりと。

いつでも、ご案内します、と、微笑む。
叶うかも分からないそれは、きっと夢物語でしかないけれど。

相手の慌てように、頬を擦り擦り、過剰反応だったなと苦笑いを浮かべて。

背中を押されれば、こくこく頷いて歩き出し。

歩きながら、話をする。
時折、イェジが茶々を入れて、それをミハウが嗜めたり。
きっと、別れの際まで、話は途切れないのだろう。

　気にならない、と言われれば、苦笑い気味にそう返した。
　それから、彼の言うことを、黙って聞いて。
　少しの間、沈黙した。

　そうとだけ言う。
　再会を願う言葉は、まだ、取っておいた。

　かくかくしかじかでこの世界で出会った軽トラについて話して、きっと誤った知識は訂正されるのだろう。

　そうぽつりと返し、それから少し考えて、

　と、そう切り出して。
　森があることやら、近くに村があることやら、色々と。
　もう帰ると言っている人間に言う話でもなかったかもしれないけど、そう話した。
　一頻り、彼女にしては珍しく、熱の篭った話を終える。
　いつかみんなで来れば良い、と、そう締め括って。

　それで、行動を共にするのは、最後だった。