エンブリオは万能ではない。
力を借りて生活の助けとしお互い支え合っているとはいえ、ただで助けて貰っている訳ではない。
ネクターで契約を、同時にほんの少しの契約者の生命力が必要。
ゆえに一人が同時に契約出来るエンブリオには限りがある。
それ以上を契約しては、契約者の命の危機に成りえる事もあるからだ。
木々のざわめきを聞きながら、一人思う。この世界の当たり前の理を。
ゆえに、この先に居るであろう新たなエンブリオとの契約には多少なり、覚悟が必要だろうと。





さやさや。

さやさや。




揺れる木々のざわめきは意識を何処かへと運ぶ。
此処であって、此処でない場所へ。



さやさや。

さやさや。





『……ーシェ……クローシェ』

木々のざわめきに混じって微かな、でも確かに声がする。
呼ばれる優しい声。何度も何度も聞いた。

「……おばあさま」

震える唇で、声をどうにか返す。呼び名を、その一言を口にするだけで泣いてしまいそうだ。
大事な、大事な人。私を拾い育ててくれた人。私が守れなかった人。
会える訳は無いのだ。彼女はもう『居ない』
だからこれはきっと夢か、森が見せた幻か、はたまた何かなのか。
それでも二度と聞く事がないと思っていた声は、余りにも懐かしくて、優しくて。

『あらまあ、泣きそうな声で。そんなに泣き虫だったかしらねえ』

お互い実体があるのか、無いのか。
私は今瞳を開いているのか何も見えていないのか。
それでも頬へ触れる皺だらけのかさかさとした、草独特の匂いの染みついたその手はとてもよく知ったもので。

「おばあ、さま。私」

『時間よ、クローシェ』

何かを言わねばと。この時が永遠では無いとわかるから。
常に浮かべた笑みは何処へか。幼子の様な、年相応のただの娘。
何かに縋るように声を発するけれど、それは老婆によって遮られる。

頭を撫でる、優しい温もり。
鈍い己でも分かる。こうやって触れられるのは本当にこれが最後だと。
――自分の癒し手としての力はずっと、彼女のエンブリオとしての力を借りていた。
器が無くても、心と力は己に。
そんな彼女が前へ進めということは。

「でもっ、私は」

『もう貴女の力よ。私は貴女に託したもの』

あの時に、と笑う気配がする。要するに彼女は。

「――おばあさまとの、契約を、解除しろと。……そう言うんですか」

『端的に言えばねえ。……器も無い私に、ずっと生命力をその分削るのは私だって忍びないもの』

実体があり力を借りているのとは違う。
己の意思で支えるそれは通常の契約とは異なったもの。
常よりも倍の生命力を必要としたそれの事を指しているのだろう。

「でも、それは当たり前の事で。……まだ私はがんば」

『クローシェ。貴女に無理をさせるのは本意じゃないのよ。わかるでしょう？』

反論を許さぬ、けれど優しい声。
髪を梳く様に動く手に、自然と雫が落ちる。
わかっている、分かっている。何かを言った処で彼女はもう己の決断を変えないだろう。

『……嬉しかったわ。こんな力が衰えた、器ももう無い私を連れて行ってくれて。
でもね、もういいのよ。もっと貴女が『今』『守りたい』ものの為に力を貸してくれるエンブリオがいる』

『居なくなる訳じゃないわ。あるべき形に戻るだけ。森に還るだけ』

『――私の力は、貴女の中にずっとある。そしてもうこれはあなた自身の力の欠片』

『森が力を貸してくれるわ。姿を変え、形を変えずっと』

『――貴女なら分かる筈よ。＜クオリアの魔女＞』


――守りたかった、守れなかった。
ずっとあの日々が続くと思っていた。
自分を守り慈しんでくれた優しい手。優しい眼差し。


「……守れなくて、ごめんなさい」

ずっと言えなかった、言葉がぽろりとこぼれ落ちる。
ぽろり、ぽろりと落ちる涙と共に。
その涙をかさついた手が拭いながら、仕方のない子ねえ、と笑う。

『それはあなたが謝る事じゃないわ。私は有難うと、言うべきだわ。
……どちらかと言うと皆の方が勝手に解約してと怒ってるはずよ。会ったらきちんとお叱りは受けなさいね。
さ、笑って頂戴。その顔で仲間に会う気？そんな顔を見せたらハルニレだって心配するわ』

その言葉にはい、と小さく頷いて少しだけ、口角をあげる。きっといつもの、私の顔。
あの時に取った幼い無謀な行動の、果て。
失ったものも、得たものも。どちらも己の決断。

それでも彼女がこういってくれるなら、一つだけでも間違いじゃ無かったなら。
言えなかった言葉を、伝えられる筈の無かった言葉を言えたことで胸のつかえが、少しだけ、とれた気がして。

『足りなかったものを見つけたのかしら。……いい人達と巡り合えたのね』

『大事になさいな。後悔だけはしない様に』

「――有難う、おばあさま」

一つ、一つ。言葉を大事に受け止めて。
躊躇うことなく腕を伸ばせば草の匂いに混じって確かなぬくもりを感じる。
いつの間にか超えてしまった背を、ぎゅうと抱きしめて。
笑う気配だけを感じて、背をそっと撫でる手の温もりを残して。


さやさや

さやさや





さやさや

さやさや

いつもより少しだけ、穏やかな笑みを浮かべて。

　

　
　問い返す声には、はっきりと明瞭に。返してから、ほんの少しの苦笑。僅かに恥ずかしがるように、胸元で両手の指先を絡めた。
　

　
　この姿はそのせいもあるのだと告白する。"彼"は上手なんですよと、言い添えて。
　そうしてから反復する言葉には、今度は申し訳無さそうな笑みを象る。それでも言葉は鎖す事はせず。
　

　
　作って欲しいのだと、そう言った後に短い沈黙。そうしてから、首を傾ける。波打つ銀の髪が揺れる。
　

　
　対価は創り手の言葉のままに。
　言った紫は、黄昏を見据える。

エンブリオもある意味では友人と言えるのかもしれないが。
それとはすこし、違う意味で。

　例えば、その人の手先を見よう見まねしていたのだとしたら。
　それが既に、何等かの法則を持っていた――という事も、有り得るかもしれないのだし。

　ぱたぱたと手袋をはめた両の手で熱くなった顔を仰ぎながらも、嬉しそうにはにかんで。

呼吸一つ。それから杖を構え、穏やかに笑う。