「ばかだね」

そうささやく声は確かに柔らかな笑みを滲ませていた。
そんなことないもの、と反駁したいのに、口を開けば言葉にならぬ声しか出ないのは、
彼のせいじゃなくて。ただ、まだ泣きじゃくろうとする情けない自分のせい。
だから、伸ばした腕の中に彼が納まってくれたことには、少しばかりホッとした。
その吐息が、彼の首元をくすぐってしまったかもしれない。
髪を撫でながら彼の言葉を聞き、聞きながら手を下げて背を撫でる。
今の方がいい、とその口ぶりに嘘がないのが嬉しくて。
それで頬が緩んで、やっとちゃんと、いつものように笑える…笑おうとできる、気がした。
とんとん、と軽く背を叩いて手を離す。右手を持ち上げる。人差し指を立てて、彼の眼前、突きつける。
レンズ越しの、彼の目が丸くなった。
笑みが、自然にこぼれる。

「よく――でき、ましたっ」

わざとおどけて、スタッカートを効かせた。もう泣かない、大丈夫。そう伝えるために。
……だったのだが。続けてしまった問いに。ずっと穏やかに笑んでいた彼の赤がふと翳った。
ぁ、と眉尻が下がる。しまった、と心に走る。
でも、泣くまいと。唇を噛んで、無意識にケープの胸元を握り締めながら、首を傾げた彼を見上げる。
その口元を見逃すまいと、じっと視線を注ぐ。
彼の言葉を聞き漏らさないように。

「魔術……師？」

繰り返す。俯く。無意識に口元に手を添える。考え事をしているときの癖。
魔術師？　そんなキャラクターはあの物語にいただろうか。
もしかして、――物語の外から？　出来るのだろうか、そんなこと。
自分の住むここ以外にも、たくさんの世界があるのは知っている。
世界を渡る手段も、ないわけじゃない。
だけど――だけど。本の中にまで？　そんなことが、できるのかしら？
ましてや、その本の中に刻み付けられた登場人物を、その役割のくびきから解き放つなんてことが？
魔術師。魔術師。魔法を使うひと。わたしと同じ。なら、わたしにもできる？
………………いまは、できない。わたしには。
なら、先生は？　……………わからない。できるかもしれない。できないかも、しれない。
だけど、条件。願いを叶えるためには条件がある、それって……。

あくまみたい。

よぎった考えに少し、震えた。
けど。けど。けど。思考は止まらない。
けど。……その条件を、約束を。エンバーさんは果たしていない。
なら、いつか。今の……彼の不在による、"物語世界に出来てしまった歪み"　は、彼を、

「………………………、」

蟻地獄に吸い込まれるように、悪い方へ悪い方へと滑り落ちてしまう思考。
それを遮ったのは、音のない彼の声。
どうしたんだ、と。
そう言うように動いた後、口角引き上げて弧を描く唇。

「ぁ……」

レンズ越しの、彼の瞳に映っている己は、ひどく情けない顔をしていた。
ぷるぷると首を振る。きつく目を閉じ、意識をそこに集中させる。
目を開ける。口の端を引き上げる。うまく笑えているだろうか。

「な……なんでも、ないわ〜。
すごい魔法を、使われる方がいるんだな〜、って。
だけど、その魔術師さんは、何を探してほしかったのかしらね〜？
んん、……どんな方だったかは、覚えてらっしゃる？
先生に伺ったら、もしかしたらご存知かしら……」

のんびり進攻の最中、名前を呼ばれる度に「どしたん」と返事をし。
それが幾度か続いた後でようやく、足を止めて振り返った。
てちてちぱたぱた、と、何処か楽しそうに歩く彼女へと視線を向け。
釣られるように、己も笑みを浮かべてもじもじする様子を眺めて。

斜め上の知識オンパレード。
そのイベントがどういったものか、彼女の説明にふんふんと頷きを返し。
そうして差し出された箱に、ぱちりと瞬きを落として。

受け取った矢先、きゃあ、と言いながら柱へと走って行く姿に目を丸くし。
けれどもその可愛らしいおしりが見えていれば、肩を揺らして箱へと目を落とした。

可愛らしくラッピングされたそれを、そっとリボンを外して開く。
ひとつにすればハート、よっつそろってクローバーに見えるケーキに、
そこに籠った彼女の気持ちに嬉しさを感じて、双眸を細めて小さく笑い。
崩してしまうのはもったいないけれど、ひとつ手に取って、口へと運んだ。

ラムの香りが程良く、掛かった粉糖がケーキの甘さを彩って舌に残る。
あまりにも美味しいから二口、三口でぺろりと平らげてしまって、反省しつつ。
柱の方へと足を向けて、隠れているつもりの彼女のその背後に立ち。

彼女が振り返れば満面の笑みを浮かべた男の、微かに照れたような顔が見えるだろう。

足元を見下ろす。
「アヒルの黄色いスリッパ」とも歌われる、見慣れた大きな足がそこにある。

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