からかた、からかた。

がらがら、がらがた。

騒々しい音を立てて、狂骨は走る。
両脇に聳える生垣を横目で流し、駆けていく。

走れば走るほど、惨めさが重みを増して肩にのしかかる。
逃げている、自分は逃げているのだ。

人斬り狂骨が、人を斬るのに恐れをなして。

同じような惨めさを、少し前にも味わった、
しかしあの時は黒丸が傍にいた、黒丸が先導してくれていた。
今は違う、その黒丸から背を向けて、逃げ出している。

音が出るほど奥歯を強く噛み締めた。情けない。

しかし、狂骨の足は止まらない、情けなさ、惨めさよりも恐怖が、今の狂骨を動かしていた。

恐ろしい、呪いの痛みが、人を斬るのが、恐ろしい。
恐ろしい、恐ろしい、背を貫いた黒丸の、冷たい言葉、冷たい視線。

逃れたい、遠くへ行きたい。
どこか、どこかへ、この怯え竦んだ体を落ち着けるどこかへ。


どれほど走ったか。
堅牢な頭蓋の横に穿たれた、小さな穴に、静かな川のせせらぎが流れてきた頃、
足を縺れさせるようにして、狂骨は漸く動きを止めた。

ばしゃん

さあさあと流れる小川に大きな波紋を作って這いつくばり、荒く息を吐いた。

左目は膿んだ傷のように、強く、熱く、緩慢に痛んでいた。

「何故　痛む」

静かに流れる水面を近くで眺めて呟いた、
水面には、惨めで貧相な骸骨が写っている。

「殺さなかっただろ　なあ　何故痛むんだ」

強い力で水面を叩きつける、水面の骸骨が歪んで崩れる、
大きな飛沫が跳ね返っても構わず、叩きつける、何度も何度も。

「痛む　痛む　痛む　痛む　痛む！　あああああああ！！！」

叩きつける、強く、川底を抉る程強く、
舞い上がった水しぶきは、滝のように強かに骨の体を打ち付けた。

顎から、牛の涎のように水を滴らせながら、狂骨は頭を抱え込む。

「痛いのは　嫌だ　死ぬのは　怖い」

ずっと、抱えていた言葉を小さく吐き出した、
農場で、激しさを増した呪いの痛みに耐え切れなくなった時から、こんな事を思うようになっていた。

槍で突かれるのとも、剣で斬られるのとも、まるで勝手が違う呪いの痛み。
戦闘の高揚も、血の熱さも、感情の欠片すら感じられない、ただ苦しめるだけの空虚な痛みは、
怨みに滾って肉を捨て、狂いに狂った狂骨を、蝕み、苦しめ、死の恐怖を味わわせて、やがて無残に破壊したのだ。

人斬り狂骨を、跡形もなく。

今の狂骨は、痛みを恐れ、死に恐怖する、死にぞこないの、哀れな骸であった。

「こんな物」

濡れた手を眼窩に翳した、その時、後ろから声がする、
背筋の凍る冷たい声色。

「要らない、とでも言うつもりかね？ 狂骨。」

水面を乱して振り返った狂骨の赤目に、黒い光が刻まれた。
体に掛かった水しぶきが、冷や汗のように流れて落ちる。

「君が望んだ呪いじゃあないか、それは。　呪い屋の彼に失礼じゃないかね？」

不気味に体を歪ませる黒い光に、あの呪術師の笑みを見た気がして、狂骨は身を震わせた。

「いやあ、驚いたな。まさか逃げ出すとは思わなかった、狂骨、失望の極みだ。」

「違う　俺は」

「黙れ。」

「呪いさえ無ければ」

「黙れ！」

黒い光が殊更強く輝いた。

聞いてくれ、叫ぼうとして気付く。

声 が 出 な い。

驚き藻掻いて、首の骨を掻き毟る。

「私が君に供給する力の一部を制限させてもらったよ、声が出ないだろう？」

冷たい声で囁いて、黒い光が音も立てずに寄ってくる、
狂骨は愕然としたままその光を見つめ続けた。

「なあ、狂骨。何故私が、態々君を骸骨なんかにしたと思う？」
「その姿にしたのは、単純な戦闘力向上の意味合いもあるけどね、本来の目的は」

「君への、枷なのだよ。」

興奮した子供のように上擦った声で、愉快に黒い光は告げた。
狂骨は硬直したまま、身じろぎ一つしない。

「もし君が期待はずれの人物であったなら、今の君のように、体の自由を、機能を奪って
　無理やり言う事を聞かせるつもりだったのだが」

「当初の君は凄かった、予想以上だったよ。今でも覚えている、君が最初に押し入った民家での事、
　地獄の鬼すら恐れ慄く鬼畜の所業、君のような男なら最後まで上手くやっていける、そう思ったのに」

声が沈む。

「まさか、あの呪いがここまで君を変えてしまうとは」

「まあ、こうなってしまっては仕方がない、最初の予定通り君を…」

光が言い終える前に、狂骨は立ち上がり、背を向け、逃げ出した。
これ以上、人を殺せばどうなるか、これ以上、呪いが強まればどうなるか、想像に難くない。

逃げなければ。

ざぶざぶと川の流れを断ち切って、決して早くない速度で駆ける。
視線は川の、向こう岸へ。

悲鳴か、咆哮か、とにかく大きな声を出したかったが、案の定言葉は出ない、
ただ、かたかちと歯が噛み合う音しか発する事しか出来なかった。

右足で踏み込み、左足を前に出したとき、妙な感覚がして、狂骨の視線は、向こうの岸から下の水面へ落とされた。

ばしゃん　ばしゃしゃん

川底へ叩きつけられる頭。
顔に、体に、無数に空いた隙間から冷たい水が流れ込む。

何が起きたのか。
逃げなければ。
早く。

手をつき、体を起こす。入り込んだ水がざあざあと滝のように流れ出た。
そうして立ち上がろうとした時に、やっと気づいた。

脚が、無い。

股関節から先が、無くなっていた。

ついさっきまで体を支えていた一対の脚は、狂骨の体から離れて、川底へ沈んでいた。

かたかちと、音が鳴る。

「以前言ったはずだ。君の選んだ道はやり直しは聞かない、後戻りだって出来やしない…。」

体を捻って黒い光と向き合った。
口から絶え間なく音が出る。

「何か、言いたい事でもあるのかね？」

黒い光は一瞬考えたようだが、すぐ、良いだろう、と続けた。

瞬間、首の周りに熱い血が流れるような感覚を覚える。

かちり。
一度歯の根を合せてから、それから狂骨は口を開いた。


「た す け て く れ」

黒い光は瞬いた。
くぐもった声だが、はっきりと、意味は伝わった。

助けてくれ。

「ふっ」

光が、息を吐くように笑った。
次いですぐ、高い笑い声が辺りに響き渡る。

「あははははははははははははははッッ！！！！」

緩やかに流れる川の中、骸骨と、光が向き合ったまま、
骸骨はかたかたと震え、光は高く高く笑い続ける。

「良くぞ、良くぞ良くぞ言えたな！狂骨！」

ふわりと、生臭い臭いが漂う。
狂骨はどこかで同じ臭いを嗅いだ気がした。

「その言葉を聞いた時、お前は今までどうしてきたんだァ？」

臭いが濃くなり、思い出す。

この臭いは、今はもう懐かしい、嗅ぎ慣れた、生臭い新鮮な、血の臭い。

「この言葉を言った時、"君達"は一体何をされたァ？」

ずきり、ずきり。
呪いの鼓動が早くなる。

気付く。
ああ、後ろに誰かいる、こちらを見ている。

「見ろよ、狂骨。後ろを見ろ。」

震える首を、ゆっくり回して、狂骨は後ろを振り向いた。

「だきしめなくちゃ」

首の無い兵士。

自分が、首を刎ねて殺した。いつかの兵士。

首が無くとも、じぃっと狂骨を見つめ続けている。

まだいる。その兵士の後ろに、まだ何人も。

同じく、首の無い男。頭が半分欠けた女、重心が取れずにぐらぐらと蠢いている。殴り潰され、顔がめちゃめちゃに崩れた子供。
すすり泣く、指の無い女。胸に大きな穴が空いた男、ひぃひぃと息を漏らす。首が深く裂かれた少女、滝の様に血を流し続けている。
到るところを欠損し、刻み、穿たれ、呻きを上げる、男衆。

皆々揃って、狂骨をじぃっと見つめている。
酷く濁った虚ろな瞳で、じぃっと狂骨を見つめ続ける。

ばすん、身体のどこかで弾ける音がした。

「や め ろ」

「何がやめろだ。お前が殺し、お前が集めた怨みじゃないか。」

ばすん。ばすん。

音がする。

左目が、じくり。じくり。じくりじくりじくり。

「見 る な　俺 を　俺 を 見 る な」

ばすん。ばすん。ばすん。ばすん。ばすん。ばすん。

痛む、痛む、痛む痛む痛む痛む痛む痛む痛む痛む痛む痛む痛む痛む。

「見 る な　見 る な　そ ん な 目 で　俺 を 見 る な　　俺 を　俺 を」

――――呪いが

　　　　　　――――侵食する

「 俺　を　怨　む　な　あ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ！！！」

絶叫。

狂骨は絶叫する。

左目を押さえて、毒餌を喰らった鼠のように、酷く醜くのたうち回る。
川底に沈み、藻掻き、暴れて、浮き上がってはまた沈む。

硝子が割れたような、ぎざぎざした悲鳴を上げる狂骨を、怨念達は静かに見つめる。

「今日限りで、狂骨。私は君の影を辞める事にする。」

黒い光は、冷たく言葉を紡ぎ出す。

「これからは、私の思う通りに動いてもらう、思う通りに殺してもらう。」

「本当に残念だよ、君とは良好な関係で居たかったけれど。」

立ち並ぶ、怨念達を見て。
黒丸はため息を零す。


「君ほどの殺しのセンスは、きっと私には無いだろうから。」


荒れる水音は、暫く続いた。

合わさった刃を少女は少しうつろな目で見つめる
この化け物を引き込んだことに後悔はない　もとより裏ギルドは隠れ蓑
アラビアンナイツが本命であるのだからどうなろうと知ったことではない

奪われたもの・奪うもの様々な思惑が重なってまた一人と増えていく