ENo.1071 ハノとノア　さんを書かせていただきました。
兄妹モノが大好きなので、すごく楽しみながら書きました。
ただし、このＳＳはあくまで私の妄想の産物です。
ノアさんがこんなことを考えているかは分かりません。

◆

　野鳥のさえずりで目を覚ました。
　隣の寝床を見ると、すでに兄の姿はない。毛布はきちんと畳まれている。
　私は天幕の中で身を起こし、軽く伸びをした。
　ふるふると背中が震える。
「あふ……」
　欠伸が漏れる。
　私は身支度を整えて長い髪を櫛で丁寧に梳かす。薄桃色の髪は魔力持ちの証。ただし私は兄の手助けがないと魔力を発散することができない。体内に蓄えられた魔力は毒素でもあり、次第に私の体を蝕む。
　私は一人では生きてゆくことができない。
　身支度を終えた私は手鏡でおかしなところがないか確認したあと、天幕を出た。季節は初夏だが、早朝であるため少し肌寒かった。
　私は、狩りに行く兄に従って森に来ていた。目当ての獲物はまだ見つかっていない。
　美味しそうなスープの香りが鼻をくすぐる。
　スープの味見をしていた兄が私に気付き、笑顔を送った。
「ノア、おはよう。よく眠れたか？」
「兄さん、おはよう。まあまあ眠れたわ」
　我ながら可愛げのない答えだと思う。もし私が兄の立場だったら、こんな妹はとっくに見放している。兄はもう結婚できる年齢になったのだし、私のように手のかかる妹のことなんて忘れてもいいはずだ。
　それでも兄は私に優しく接してくれる。
　今朝も先に起きて朝食を準備してくれた。そんな兄に私は感謝の言葉を返すことができない。
「さ、顔を洗ったら飯にしよう」
　兄に促されて、泉から汲んできた水で顔を洗う。冷たさが気持ち良かった。
　簡単な食事を終えたところで兄は小銃を取り出す。村の鍛冶場で兄がこしらえたものだ。兄は魔力を持たないが、手先が器用で様々な道具を作る。兄の小銃は回転式弾倉を備えたもので、こういう形式の小銃は珍しいのだとか。兄は得意げに銃の性能を語っていたが、きっと私には兄の言葉が半分も分かっていないだろう。
　私は兄の小銃に軽く口づけする。魔力が金属を通して伝導し、弾倉に魔力が込められる。私の中の毒素が少し薄くなった気がした。
「ありがとう、ノア。今日こそ倒してくるから期待しててくれ」
「兄さん、あんまり無理しないで」
「分かってるって」
　兄は意気揚々と出かける。
　狩りは忍耐力を求められるらしい。獲物と出会えないことが続くとどうしても焦ってしまいがち。そんな時でも平静を保ち、安全に気を配ることを忘れない。危ないと思ったら躊躇わず退く。そういう判断力が必要になってくると兄は言う。実際、兄は狩りで大きなケガをしたことがない。でも私は兄が狩りに出かける度に不安に襲われる。
　兄さん。
　どうか今日も無事に帰ってきて。

◆

　兄が作り置きしてくれた昼食を食べ終えた私は、兄が帰ってくる前に水浴びを済ませることにした。
　幸い、泉はすぐそこにある。
　私は兄からもらった護身用の拳銃を確認してから出かけた。
　森の中は甘く爽やかな匂いに満ちている。木々の間を柔らかな風が吹き抜け、枝がささやくように擦れ合い、木漏れ日が揺らめく。
　やがて視界が晴れて、綺麗な泉に出た。透明感のある水質で、水底まではっきりと見通せる。どうやら深いところもあるようだ。
　私は水辺に拳銃を置き、ワンピースやブラウスを脱ぎ始めた。
　下着姿になった時、泉の方から水音が立った。
「誰？」
　慌てて振り返った私の前に、一人の少女が佇んでいた。
　少女と私は言った。しかし人間でないことは、少女の半透明な体からして一目で分かる。おそらく泉に住む妖精だろう。村を出てから妖精のような不思議な存在と遭遇することが度々あった。そういう意味では、私は驚いていない。
　問題なのはこの妖精が敵意を抱いていないかということ。
「ごめんなさい。ここが貴方の住処だって知らなかったの」
　私はとりあえず謝った。
　しかし妖精は私の謝罪に対して言葉では反応しなかった。じっと私に目を注ぐ。湖面のような光を湛えた深遠な瞳が私を捉える。
　一体なにを考えているのだろう。
　果たして妖精は言った。
「貴方、恋してるでしょう」
「え？」
　一瞬、なんのことか分からなかった。
　恋？　私が？
「私が誰に恋をしてるって言うの？」
　魔力を発散することのできない、という欠陥を持った私に声をかけてくれる男の人なんていなかった。両親でさえ、私を腫れもののように扱ってきた。
　ずっと傍にいてくれたのは兄だけで。
　そんな私が恋をしているはずがない。
　妖精は意味ありげな微笑みを残して泉の中に消えて行った。

◆

　夜遅く兄は狙っていた獲物を仕留めて帰ってきた。子ウサギにも似た小動物には長い角があり、これを薬にすると高値で売れるらしい。しかし兄の目的は、私の体内の毒素を中和する治療法の発見にあった。
　いつもより上機嫌の兄は盛んに私に話しかけてくるが、私は兄の顔を直視できなかった。下を向いた私の目は兄の手に止まっていた。
　綺麗な指をしている。
――貴方、恋をしてるでしょう。
　不意に妖精の言葉が蘇った。
　まさか妖精の語った恋というのは……。
「ノア？　どうしたんだ？　具合でも悪いのか？」
「なんでもないっ」
　ぶんぶん、と頭を横に振って私は答えた。
　妖精の言葉なんて気にするな。この気持ちが恋であるはずがない。確かに私は兄に感謝している。でも、それ以上の気持ちはないはずだ。
　やがて天幕で寝る時間になっても、私はまだ動揺していた。そんな私のことなんておかまいなしに兄は眠ってしまう。私は毛布から顔を出して兄の寝顔を盗み見た。やんちゃなことばかりして心配を掛けさせる兄。しかし兄が無茶をするのは私を守るためなのだ。決して兄は好戦的なわけではない。
　自分の中で狂おしい想いが暴れ出すのを感じた。
　私はそっと手を伸ばす。
　兄の唇に指先を這わせる。
「ん……」
　兄がもぞもぞと起き出す。私は慌てて手を毛布の中に引っ込めた。
「ノア？　まだ起きてたのか？」
「ぁ……」
　優しい光を湛えた兄の目を見てしまった。自分のしたことが恥ずかしい。消えてしまいたい。
　居たたまれなくなった私は天幕から飛び出した。
　兄の制止を無視して森を走る。
　やがて泉に着いた私は妖精を求めた。
「教えて！　私は誰に恋をしてるの？」
　冷たい泉に入って叫ぶ。
「この気持ちは一体なんなの？　答えて！　答えなさい！」
　夜の水面は暗く、昼間とは違って底が見えない。
　私は深みに足を滑らせた。
「あっ！」
　足が底に着かない。
　もがけばもがくほど水が体に絡みつくよう。水面から顔を出せる時間がどんどん減ってゆく。
　肺を水が満たし、私の意識は遠ざかった。
　その瞬間、私はたくましい腕で抱き上げられていた。
「ノア！　大丈夫か！」
　兄だった。
　私は兄に抱きかかえられて水面からすくい上げられていた。この腕にずっと守られてきた。
「兄さん……！」
　私は兄の首を掻き抱いて泣いた。今は兄の腕に身を委ねたい。
　兄は私を抱きかかえたまま泉から上がる。
「おまえ……一体どうしたんだ？」
「きっと妖精にたぶらかされてしまったのね」
　私は兄の腕から降りる。
「なにか言われたのか？」
「兄さんには教えない」
　そんな風に答える私の頭を兄は撫でてくれた。
「おまえがそういうなら深くは聞かないけどな。さ、戻ろう」
　私たちは連れ立って天幕に戻った。
　兄は暗い夜道を先導する。兄はいつも私の先を行って導いてくれる。
　私は少し前を歩く兄の顔を盗み見る。

――でも、いつか私が追い抜いて、兄を導いて行きたい。