彼女の一日はいつも朝から始まる。日々迎える小さな死からの目覚め、恐れるように廻る冷たさへの回帰。彼女の朝はどのような場所にあっても少しばかりの清涼さと零れおちる光の中にある。震える睫毛や、徐々に顕になる朝焼けの空の、瞼の向こう側。飢えたしなやかな獣のように水を欲し、瞳に光は徐々に宿る。粛々と行われる身繕いにより、夜は確かに朝に変換される。僅かな太陽の木漏れ日は、やがてはっきりとした朝焼けへと変化し、薄い闇にいつも覆われた庭に朝が来る。Bonjour. その祈りの中に一日が始まり、死はまた過去のものとして、彼女の体の中で消化される。花が尽きれば何れ来る、malを打ち滅ぼす、瀬戸際の祈り。

彼女たち以外に歩むもののない廊下には、幾つかの残響が響いて消える。オルガの高らかな短靴の足音に時折重なる威嚇の射撃。ヤールの音は驚くほどに静かだ。その二つの振子の中を彼女の足音は楔のように打ち付けられている、一定の間隔を置いて、正しく、穿つように。統制のとれたリズムと音量によって刻まれるその足音は、つまるところ彼女の意志と律の表れだ。正しい。正しく、彼女の時は刻まれている。
その正確に刻まれる足音はゆるりと大きな円を二階廊下にもたらしている。仄かに明るく、煙る薄闇に遍く満たされる音たち。大きくふくよかに、少女のような軽い感情の高まり、緊張の張り廻って尖る、静かな愛の満ちる。五線に載せられていく音符のように、彼女の高らかな音はト音記号の世界にあり、その中をまた再びの張りのあるもうひとりの娘の足音へと重なり、静かに休符の白い闇に受け止められて、まろやかに庭は進む。五線。どこにも終わりのない、しかしそうであるならいつかは必ず終わりの来る、ゆくべきどこかへ向けられた。少なくとも、この場所で新たな音の担い手の来るまでの、あるいは何れ誰かを欠くことにより未完成となる、その唐突に途切れてやがて訪れるはずの空白は未はまだ遠い。遠い、ようにくるくると舞い巡る。

彼女は病んでいた。むしろ彼女たちは遍く病んでいた。それぞれの犯された死と共に、時の廻る不安定さの中にそれぞれの朝と夕と夜を持つ。死を遠ざけるようにひっそりと、あるいは燃え尽きるように立ち尽くし、またぽっかりと運命づけられる唐突な響きの奥に。やがて尽きるはずの命だ、少なくともふたりの娘たちは。やがて尽きる。そのことをそれぞれの時は知るか知らずか、一日は彼女たちのリズムの中で今日も訪れ、あるいは去ってゆく。フィガロ、その朝の娘の小さな眠りとそれを打ち滅ぼす光の目覚めのように。とても自然に。訪れ、去り、そうしてまた訪れ。繰り返される波、寄せては返す、あるいは、巡る音の円、ワルツのように、水の雫がぱらららと水面に織りなす双曲線の美しい重なりに似て。音の消えてしまう前までに、また新たな雫を呼び寄せる指先の軌跡。呼び寄せる。呼び寄せなければならない。いつ来るとも知れぬ終わりに抗うことだけが、彼女の戦う理由であり、存在意義に近くなっている。そのために抜け出した鳥籠ではなかったはずなのに。そのために手にした黄金であったにせよ。

鳥籠に思いを馳せた。終わりを感じた時があっただろうか。死は勿論、あのタカージュドールにも存在する。そう、彼女のすぐそばに。鳥はやがて死んだ。美しく、蝶を指先に止まらせながら。その終わりに抗いたいとどこか冷めた思いもあった。けれど、その死は遠ざけられていた、誰も彼も、彼女の中のウイルスが、タカージュドールの小鳥を愛する世界に守られて、その血の巡りで爪の末端にまで。今、彼女を殺そうと、触れれば血の溢れる刺々しさの満ちるそのウイルスそのものによって。足音が止まる。音楽は続く。終わりに向かって。血は巡る。彼女の心臓の音もまた。時も、太陽の傾きも。一揆の終焉に向けてそれぞれの足音が響く。時は流れる。心臓も、そのひとつ脈打つたびに、また血も。そしてその血の中に巡る彼女をかつて愛し、呪う鳥籠の意志も、それが歓喜か殺意か悲哀なのかはわからないにせよ。彼女の美しく統制のとれた足音が止まろうとも、血は巡る。時計の針を止めても時は止まらない。それは世界の病のように彼女には想われた。世界はすべて明日に、彼女にとっての次の死に向かって進む。 C'est comme une maladie.　彼女の肋骨が淡く輝く。死を恐れているわけでがない。けれど、それでも彼女は明日を恐れる。やがて来る終わりを。終わりは死とは同義ではなかった。それをどのような病名で言い表せば良いのかを彼女は知らない。世界も、己自身も。止まらない時を。あるいは、その時の終焉に来る、ウイルスによって喰い滅ぼされる瞬間の名前を。ただ病だということを知る。Je chante, danse, marche. C'est comme une maladie.そのどこかで聞いた遠い物語に彼女は困ったように微笑む。

音楽は今日も続く。小さな死を繰り返し、その度に捧げる祈りを持ちながら。黄金は今日も煌いて彼女の裡にあり、花は蝶の代わりに指先に咲く。流れゆく足音がある。巡り続ける朝の清澄さの中に響く残響がある。かつて白亜の塔で歌い踊った美しい鳥籠の小鳥たちの囀りに似た響き。別れの安寧を祈る言葉、墜落する小鳥のあかあかと燃える薔薇の光にシャボンのように浮かび入り混じってひそやかに照り返し、弾けていく。Salut. 呟く声で舞う風は、彼女の髪を完璧な美しさで揺らして、爪先の指し示す方向へ流れ行く。