こちらを見下ろす彼の表情は、涙の紗にさえぎられてはっきりとはわからないけれど。
でも、殊更に優しいその声音に、彼を困らせていることははっきりと分かった。

「ジャバ、ウォック…」

泣き止もうとして泣き止めない、震える声で鸚鵡返しに繰り返す。
その名前は知っていた。いつか開いた本の中、不思議で面白い言葉で綴られた恐ろしい魔物。
恐ろしいはずなのに、不思議と具体的な描写はなくて。
なのに挿絵は妙にユーモラスだった。

「'Twas brillig, and the slithy tobes
Did gyre and gimble in the wabe;
All mimsy were the borogoves,
And the mome raths outgrabe...」

彼のことを書いた詩、その冒頭が口を突く。
悪しき魔物を打ち倒す、勇ましい少年のうた。
文字を追うたび口ずさむたび、わくわくと高鳴る胸のリズムを、今もはっきりと覚えている。
だが。今は。
それも彼に振り下ろされる刃のひとつとなったに違いないと思えば。

「……………」

目を伏せて逃げてしまう弱さは、ゆっくりとした瞬きに変えてかろうじて踏みとどまった。
だが、吊り上げていた眉尻はとうに下がり、先とは違う種類の涙がまた頬を伝ってぽたぽたとケープの胸元を濡らした。
いつもの口調で紡がれる言葉は、けれど"与えられた役割"と言いつつも決して快いものではなかったことを示して胸が痛む。
見上げたままのその先で、瞬きがひとつ。
どこか遠くを見るように移ろった目に思わず、すそを握ったままの指に力がこもる。
一瞬開けた唇から押し出そうとしたのは、謝罪だったのか、それとも嗚咽だったのか。
それが判ずるよりも、視界いっぱい、紺色が広がる方が早かった。
ぁ、とか、ひゃ、とか声を漏らす間にも、ぐいぐいと涙は拭われていく。
少し強引なのに、ちっとも痛くないその手付き。
重ねられる言葉が本当に子供をあやすようで、今の自分はまるで駄々っ子のようだ、とそう思ったら、少し、笑えた。
きっと彼の手が声が、初めて会った時からずっと変わらないままの、優しいものだったからだろう。
でも、晴れた視界の先、笑みの形に細められた彼の赤色と、それから頭の上に乗せられる手の大きさに、また、何かがこみ上げそうになって、手を伸ばした。
その肩に腕を回し、抱き締める。見せたくないものを見てしまわないように、目を閉じて、頬を寄せる。
さっき彼がそうしてくれたみたいに、頭を撫でる。
日の光で不思議な色をにじませるその髪は、さらさらと指の間をくすぐった。
彼の生きてきた長い年月、その幾割を埋めているのか、愉快ではない役目を果たし続けた彼を、ねぎらうように。

「……お話を書いた人には、謝らないといけないかも、しれないけれど。
でも、エンバーさんが役割から離れてくださって、良かった」

声は、まだ震えてしまっていたかもしれない。
でも、もう泣きじゃくるのは止めようと、声の震えを抑えるために、そっと丁寧に紡いだ言葉。
再び彼の目を覗き込む時、瞼はまだ腫れていたかもしれないけれど。目は、まだ赤かったかもしれないけれど。
でももう、泣きじゃくったりはしていなかった。
うふふ、と先ほどの駄々をはにかみ笑って身を離し、「でもね、」と背伸びして彼の鼻先に人差し指を立てる。

「ご飯の方がおいしいなら、やっぱり言っちゃ駄目だわ〜
ばけものだとか、なんだとか。ご自分のこと、悪く言うのは。
だって、言う人も聞く人も、嬉しい気持ちになる人なんて誰もいないんですもの」

幼子みたいに泣きじゃくってしまったのが恥ずかしいのか、殊更に背伸びしたお説教。
だが、自分でもそれが照れ隠しのごまかしなのは重々承知のようで、すぐに頬を押さえて身を縮めていたのだけれど。
ふと、気づいた疑問に顔を上げた。

「エンバーさんがいなくなったあとのお話は、一体どうなっているのかしら？」

そう言いかけたふたつ目の問いは、途中で飲み込んだ。
だって、そこに戻って欲しいだなんて欠片も思っていなかったから。

プレゼントに喜んでもらえた様子に、ふは、と軽く笑い。

嬉しそうにてちてち歩き回る姿に喉を鳴らし。
うん、と首を縦に振って。

では改めてお茶の時間に、と言うようお湯を沸かし。
濃いめの紅茶にバクラヴァを添えて、暫しのティータイム。

食べ歩きの旅になりかけているとは言え、一揆の最中。
疲れた身体に甘いお菓子と紅茶の良い香りが染みて、ほっと一息。

年の明ける前、そんな思い出のひとつが記憶に刻まれつつ――。

まだまだまあるいままの下半身を隠すように、ケープのすそを引っ張る。
だがもちろん、それくらいで隠れるような大きさではない。
なお、クリスマス頃ころころしていたそこは、相変わらずふっくりふくふく丸いのだった。

という必死の抗弁は、さて、言い訳なのか真実なのか…。
ともあれ、彼の隣を歩くオレンジ色の足は、いつもより妙に力強かったとか。
その余波で、おしりの振りようも随分と大きくなっていたとか、いないとか。

爪の文様は消えかけだが、そこに根付く魔力は残っている。
新しいデザインはどんなモノになるだろうかと、思案を巡らせつつ。

黙り込み、腕をふにふにするその様子を首傾げつつ見守る。
やっぱ寒ィの？なんて言いつつ、マントでも貸そうとしたかも知れず。

――なお、後日。
宣言通りサロンに行って磨いた爪に新しい紋様を描いてもらい、
満面の笑みで喜んでいた男の姿があったようだ。

男の指に嵌る指輪から、不穏な気配が漂い始める。