【3年前】

「君は、かつて空前絶後の混乱を世界の裏側にもたらした稀代の詐欺師――通称『嘘吐症候群（ライアーシンドローム）』」

　……何を言ってる、この男は。私が詐欺師、だなんて。

「分かるはずだ。というか、分かれ。『私なら、分かるはずだ』。記憶を無くす前の、君からの伝言だ」

　どんだけだよ私。自分で記憶を奪っておいて、何ですかこの態度は。

「信じようと信じまいと、今君の記憶が無いというのは確かな事実。それは確かだろう」

　確かに。このマンションの一室で目覚める前の事が、今は全く思い出せない。知識はあるのに、経験だけが綺麗に抜け落ちている。

「私は」

　目覚めてから、初めて声を発した。これが自分の声……現実味が無い。自分の手、足、肌――その質感すらも忘れてしまっている。

「どうして記憶を無くそうと？」

「目的に関しては私にも分からない。ただ、こうなるに至る経緯は話すよう、君から言い伝えられている」

　男は抑揚の少ない声で話し始めた。話によると、私はある『取引』をしたらしい。私が提供するのは自身の記憶。私が獲得するのは、

「この世界の半分」

「……？」

　どん、と男の腕が、アタッシュケースを乱暴に床へ叩きつけた。その拍子にケースが開く。こぼれる二、三の札束。

「ほ」

　ん、と言おうとして、息を飲んだ。ケースの中には、やはり札束がぎっしりと詰まっていた。ここから見る限りでは、本物だ。

「ん、もの？」

「正真正銘、本物のカネだ。当座の資金として渡すよう、君に言われた」

　世界の半分。より正確に言うなら、世界の半分の富。私はそれを対価に、これまでの人生の記憶を売ったのだ、と。

「――分からない」

　それを知らされたことで、むしろ疑問は次々に湧き出してきた。何故私は、それほどまでに富を求めたのか？　私の記憶はそれほどまでに価値のあるものだったのか？　そもそもそんな酔狂に乗る取引相手とは？

「…………」

「質問はもういいのか」

「……はい」

「大したものだな。『ここまで聞けば、私は質問を打ち切るだろう』――君が言っていた通りだ」

　全く大したものだと思う。ここまで自分をコケにしてくれるとは、私はＭなのかＳなのか。

「これ以上の質問は意味が無い、あるいはまずあなたの知りえない情報と判断しました。……あ、最後に一つだけ、私が得た『富』とやらへのアクセス方法は？」

「日本国内にある主要銀行のキャッシュカードを渡しておく。それぞれ100億の預け入れがあるはずだ」

　男が投げ渡したポーチの中には、確かにそれだけの金額が記帳された真新しい通帳とカードがあった。

「住居も国内・国外に一定の数を確保している、必要があれば今からいう番号に電話を入れろ。身分証が必要になった時も同様だ」

「『情報』が必要な時も、そちらでよろしいでしょうか？」

　私がそう言った瞬間、男の目じりが少し動いたように見えた。

「……それは別口で頼む。可能なレベルで、各国の諜報機関への直通回線を用意する」

「分かりました」

　その後、最低限の諸々を聞き出した後、私は立ち上がった。

「これからどうするつもりだ」

　男が聞く。この答えも、過去の私は予想済みなのだろうか。

「暫くは世界中を渡るつもりです。私のことを知るために」

　まずは私を知ること。再度スタートラインに立つために、必要なこと。

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【3ヶ月前】

「……ふうっ！！」

　猛烈な勢いでの突進、からの踏み込み突き。だがその動作はあまりに単純、あまりに愚直。

「っ、はい！」

　最小限の力と動きでその腕を払う。タイミングはシビアだが、それを実行するために必要な情報は十分に推測できた。方向をずらされた力は、そのまま発生源である男を巻き込み、私の斜め後ろ上空へと流れていく。

「決めますよ、ディード」

　間髪入れずの月面宙返り。丈長のスカートがふわり、と重力に逆らい揺れた。

『――クロ、避けろ！』

「無理ば言いよっとな！　こっちは空中制御のコツばまだ掴めんと」

　回転の勢いを乗せた蹴りが、男の側頭部を打ち貫く。3回のバウンドの後、水田に突っ込む直前でぎりぎり体勢を立て直し、男は立ち上がった。

「……ってぇ。今のはガードが間に合うとらんかったら、死んどったぞ」

「あら、だからワンテンポ遅らせて攻撃したんですけど？」

　砂埃を払い、右目を瞑りながら言う。男は苦笑し、足下に落ちた麦わら帽子を拾ってかぶった。

「もう契約者同士の仕合じゃ相手にならんの、すず」

『クロも決して弱くは無いが――モノが違うな、こいつは』

　兄――朝日奈　黒鉄との手合せが一段落した所で、村の会合を終えた父と母も合流した。私は今、彼らの娘であり、また彼の妹として――『朝日奈　すず』として生活している。

「兄さん、さっきの傷は大丈夫ですか？　痛むなら治癒術かけておきますけど」

「大丈夫じゃ。こんぐれえなら一晩寝りゃ治っとる」

「丈夫さはオイ譲りじゃからの、クロは。すずは母親似かのお」

「せやね。体術と戦闘のセンスはうちに近い――あるいは超えとるかも、ね」

　家族四人であぜ道を歩き、家へと帰る。こんな光景に私が居ることなど、以前の私は想像できるだろうか。

「――どうした、すず」

　兄がこちらを見、人差し指で私の頬をぬぐった。突然の行為に戸惑いと同時、体温と心拍数が上がる。

「泣いとるんか」

「え」

　山間に沈む夕日が眩しかったからか、あるいは一瞬の心の弛緩か。自分でも気づかないうちに、涙が一筋漏れ出ていたようだ。

「ごめんなさい、何でもないです。大丈夫ですよ」

「……そうか」

　涙を拭いながら、私は微笑んだ。笑顔が苦手な兄も少し表情を緩め、再び歩き出す。

　兄の指が触れた頬は、未だ熱を持ったままで。

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【3日前】

「――そうですか。長旅お疲れ様でした、マリア」

『ええよ。……ごめんな、うちの力じゃ……クロを、守りきれんかった』

　電話口から聞こえる彼女の声は、暗かった。村に居た頃から姿形を変えているとはいえ、ここまで落ち込んだ様子を彼女が私に見せるのは、これが初めてかもしれない。

「大丈夫です――少しだけ、待っていて下さい。準備ができ次第、そちらへ向かいます」

『……今更言うのもあれやけど、ほんまにええんか？　無理してうちらに付き合うことは』

「予感はしてましたから。こういうことになるかもしれないって、だから」

　覚悟はできてます。そう言って、私は電話を切った。

『行くのか』

　鏡から声が聞こえる。私の相棒――『鏡姫』ディード。

「ええ。次は私達が、あの二人の意志を継ぐ番です」

　メイクを落とし、ぱんと頬を叩く。大丈夫。大丈夫だ。

「行きましょう、ディード。父さんと、兄さんを探しに」

　私は嘘吐き。自分の弱さも、騙し抜け。