狂骨は苛立っていた。

近頃、面白く無い事ばかり起こる。

"呪い"の左目は未だ、じくりじくりと酷く痛むし、
農場で新しいエンブリオを手に入れたと言う鹿矢は憎たらしさに磨きがかかり、
斬り殺す時を心待ちにしていたマリアはいつの間にか姿を消し、代わりに目障りな黒猫が周りを彷徨くようになった。
つい先日は人語を喋る小煩い羽虫絡まれたし、今さっき斬り倒した烏賊も凄まじい喧しさだった。

腹いせに斬りかかろうにも、度々耳にする精強な賞金稼ぎの噂がそれを躊躇させる。

全く思い通りにならない、面白く無い。面白く無い。

ここ最近で景気の良い話と言えば、農場にいた盗賊団の女首領と繋がりが持てたぐらいである、
彼女と、その傘下のはぐれ者共を利用すれば、圧倒的多勢の一揆衆にも太刀打ち出来る、
と、狂骨は思っていた。

しかし、それすらも狂骨にとっては面白く無い話である。

農場で幾つか言葉を交わし、中々の人物であると認めはしたが、それでも、女だ。

女等、男の快楽の為だけに生きれば良いと考える狂骨にとって、
小娘風情が有力な力を持ち、自分がそれを当てにしなければならないこの状況は、やはり面白くなかった。

「狂骨、狂骨。」

背後から黒丸の声が薄らと聞こえる、狂骨は足を止め、振り返った。

「ああ、良かった。幾ら呼んでも返事をしないものだから、耳でも落としたのかと思ったよ」

「耳も　鼓膜も　脳味噌も　手前ぇが全部持って行っちまったんだろうがよぉ」

いけしゃあしゃあと笑えない冗談を言う黒丸に、狂骨は一層苛立ちを募らせた。

丁度、見世物小屋の座長と名乗る男と話をした頃から、狂骨は黒丸に少々の不信感を抱いていた、
口にはしていないが、最近の黒丸の一挙一動、一言一句が目に障る、耳に障る。

強く睨みつけたが、黒丸は特に気にした様子もなく、いつもの調子で鈍く光った。

「私を睨む前に周りを見ることをお薦めするよ、狂骨。」

「何ぃ？」

黒丸に向けた目線を、ぐ る ぅ り、と音が出そうなほどゆっくりと回す。

先まで足元で永遠と、虫のさざめきのように喧しい音を、流れ、奏でていた水も、
闇夜の星のように瞬いていた石ころも、太陽が顔を覗かせても薄暗いままだった空も、いつの間にか姿を消していた。

代わりに、無駄によく手入れされた生垣が両脇を走り、その生垣に咲いた花には、毒々しいほど派手な蝶が集っていた、
明るく晴れた空に浮かぶ太陽はまるで、ここそが自らの天地と言わんばかりに憎らしい程輝き、
暖かな光を恩着せがましく全ての物に等しく振り撒いていた。

どうやらいつの間にか広庭へ来ていたようだ。

「どんどん景色が変わっていくのに気にもとめず歩いて行くから焦ったよ、呼んでも返事はしないし」

嫌味っぽく、ねちねちとした言い方で黒丸はやんわりと責めてきた、
こういう所が、また頭に来る。

「悪いな　考え事をしていたんだ」

「君が考え事、か。それはまた。珍しい。」

「喧嘩でも　売っているつもりか？」

「とんでもない。」

擽るような口調で黒丸は言葉を吐く

「でも、気になるな。私の言葉も耳に入らぬ程没頭する考え事とは？是非私にも聞かせて欲しい。」

黒丸は、鈍く光ながら、ふわふわと狂骨の顔を覗き込むように近づいてきた。

ざらざらと苛立つ、
まだ、嫌味を言っているのか、こいつは。

「うるせぇな　大した事じゃあねぇ　これからどうするか　とか　人斬りてぇのに 中々斬れねぇな　とか　それっくれぇの事だよ」

「ふぅん、意外だな。私はてっきり」

声を落とし、数秒間を開けて、黒丸は吐き出す

「"連中"の事でも、考えていたのだと思ったよ。」

狂骨はぞくり、と、全身に粟が立つような感覚に襲われた。


"連中"


"連中"


"連中"


体に染み込んでいくその言葉　"呪い"が呼応するようにどぐりどぐり暴れだす
痛む　左目が痛む　左目から　縦に　横に引き裂かれるような　痛み
思い出したくなかった　二度と味わいたくなかったこの痛み

手で押さえても尚　痛む　手の隙間から痛みが溢れ出ているようだ

恐怖　恐怖　恐怖する　農場で　農場での　最後の瞬間に　自分を襲ったあの　痛み

思い出される　痛み　痛む　痛む　痛む　



「ううぅぅ...っ　痛　痛　痛ぁ...！」

苦しむ狂骨を余所に、黒丸の言葉は止まらない。

「少しの間に、やはり君は変わってしまったな、変わってしまったよ狂骨。」
「君と私が契約を交わした時に、君が持っていたあの狂おしい程の怨念はどこに行ってしまったんだ？」
「"連中"を！王を！殺したいと言う君のあの強い"思い"は、どこに消えてしまったんだ？」
「答えろよ、狂骨。忘れたとは言わせないぞ。私は覚えている、君の怨念を。私は知っている、君の思いを」

忘れていた、狂骨は忘れていた。

あれだけあった"連中"への怨みも、あれだけ抱いた王への憎しみも、

束の間、忘れていた。何故か、それは、何故なのか。

既に、狂骨の中で答えは出ている、しかしそれを口に出してしまえば、


きっと黒丸は、自分を許さないだろう。

「これからどうするか、だと？そんな物決まっているだろ、王を止めるんだ、王を殺すんだ、"連中"を膾に刻むのだ。」
「斬りたいのに斬れない？ふざけるな。昔の君は斬っていたじゃないか」
「呪いを受けても、賞金稼ぎが居ようとも、好きな時に好きなだけ、斬って奪って殺していただろ。」
「怨みを、思いを忘れ、人も斬れずに賢しい事ばかり考えて、刀を持つ手を鈍らせる。」
「どうした狂骨、何が君をここまで変わらせた。答えろ。」

「るせぇ...」

「答えろ。」

「うるせぇ...！」

「答えろ！」

「う　る　せ　ぇ　！！！」

狂骨は、震える声をひたすら張り上げた。
一瞬の静寂が、辺りを包み込む。


「ハッハッハッ！！」

その静寂を破ったのは、睨み合う二人の内の、どちらでもなかった。
狂骨は声のした方を、じろり、睨みつけた。

二人の前方から、一人の男が、小さな影を引き連れて歩いて来ていた。

朱色の瞳に朱色の短髪、白髪交じり。
素肌にオーバーオール一丁で、高枝切りバサミを身に着けている。

「来たかクズどもめッ！！我こそは元・王宮騎士団副長にして現・庭師、ブランチマンッ！！」

声高々にそう告げる男に、狂骨は見覚えがあった。
会話こそ無かったが、狂骨が兵として王に仕えていた折、何度か見た顔だった。

先まで向かい合っていた黒丸が、音もなく狂骨の傍に寄ってきた

「狂骨、話は後で付けるとしよう。この男を、"殺した"後でだ。」

暗に"殺せ"と黒丸は言っていた。

狂骨は男に刀を向けた、切っ先が震える。

仇敵の手下を前にして、湧き上がるはずの闘争心も、高揚感も、今は無い。



口に出すまでも無かった、黒丸は知っている、分かっていたのだ。





狂骨が　"人 を 殺 す 事 を 恐 れ て い る 事 を"



「この戦に何を求める若造よ...その意志の強さ、力で以って示してみせよッ！！」

男が、襲いかかってくる。

唸りをあげて、刀を振るった。

暗い眼窩に浮かぶ赤光に睨めつけられれば背中に白の翼を生やしたエンブリオは縮み上がり

以前手も足も出なかった相手に一矢報いたことを誇らしげに…

言いかけたが予想外の異形に声を張り上げた。

一度崩れるのは予想した。だがその後は"元に戻ろうとする"だろうと考え、その間に自分の間合いに合わせようとしていたが予想は外れ

後ろに下がろうとしていた脚に白骨の手が絡みつき、足を縺れさせて大鎌を振りかぶった格好のまま尻餅をつく

男は薄笑いを浮かべ、硬直した狂骨を眺めていた。
するりと近付いてきた黒い光が何事か呟く、その声を聴いて一瞬、男の貌が強張る。

悪寒。
寒さも恐怖もとうに忘れた、そう思っていた。
しかし、暗い声と共に捻じ込まれた恐ろしい程の冷たさが、はっきりと危険を告げていた。

男が再び仮面のような微笑を取り繕い、口を開こうとした―が。

鈴の鳴るような少女の声が、それを遮った。
本の中から響いてくるその声は、恐らく骨の男には届いていない。

少女の声は一息でそこまで言うと、ああ、と付け足した。

倒れた　ブランチマンの喉頚に　血に汚れた刀を押し付ける

このまま刀を後ろに引けば　男の喉は切裂かれ　一気に致死量の鮮血が吹き出すだろう

後ろではやし立てる黒い光　しかし　手が　動かない　刀が　引けない　殺　せ　な　い

乱れた思考の裏側で　蘇る苦痛の記憶　農場にて味わった　呪いの痛み　呪いの苦しみ

この男を殺せばまたあの痛みが　あれ以上の痛みが　自分を襲うのでは無いか

恐れている　恐れている　呪いを　怨みを　人を殺す事を

恐れ　迷い　逡巡する思いに終止符を打ったのは

耳を劈く　怒号だった

刀が　放り投げられる

狂骨は　逃げ出した

何もかにもに背を向けて　走り出す

黒が、濃くなってゆく。

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（ひよこが一羽、てくてくと歩いている）

（どうやら同行者を捜しているようだが・・・？）