▼t-9

　未成熟な鬼人には、二重の生命があると言われる。名の通り、人としてのそれと、鬼としてのそれである。鬼の生命は平時には、ほんの僅かな影響を残し人の身体の何処とも知れぬ深部に潜んでいる。そして人としての生命が死に瀕した時、又は戦に際し鬼気を充たした時にのみ現れるとされる。それは、現象としては【鬼の『割合』が一定を超えた場合に表層に現れる】と、意義としては【鬼の『必要』が生じた場合に現れる】と括ることができる。

　現れた鬼は人の身体と共に在り、それゆえ彼らだけに痛手を与える手段はない。鬼に比べ脆弱な人間に同時に攻撃するならば、天秤はますます鬼に傾くばかりだ。だから、現れた鬼は止まらない。彼らを人の生命諸共滅するか、彼らが種の本能を果たすまで。





　それが『戦闘』であった時間は、さして長いものではなかった。

　致命打を受けた筈の少年に対して獅人が再びその左手の爪を振り下ろしたのは、本能の故だったかもしれない。家長に比べて若輩であるとはいえ、彼もまた百獣の王の系譜として、目の前の何かが脅威であることを察知していたのだろう。長との差は、それが腕の一振り程度で駆逐できるか否かを判別できなかった点くらいである。
　『それ』が千切れかけている筈の腕を持ち上げるのと、長が息子に制止の声をあげたのはほぼ同時だった。そして、次の刹那。

　握手でもするかのように無造作に突き出された『それ』の右腕が、獅人ルヴネの大きな左掌の中央を、ずぶりと貫いていた。

　脆弱であると嘲っていた相手の細腕で、己の武器を力任せに抉られる。それだけの驚愕を受けて、尚も『戦闘』を続けられたルヴネは、戦士としては優秀な部類だったのかもしれない。貫かれた掌で相手の腕を握りこんだ彼は、腕を引き込みながら身体を捻り、その丸太のような右脚で回し蹴りを放った。ウェイトに劣る『それ』に、防ぐ術はない――そう、見えた。

　赤い霧を纏った『それ』の左腕は、加わる力積などおかまいなしに、虫でも払うように蹴撃を弾き返した。その脚は勿論、上体すら小揺ぎもすることなく。

　お前では、ここまでか

　『それ』は少年の声で落胆したように独白すると、右腕を鬱陶しげに左へ振り抜いた――その腕を握りこんでいる、ルヴネの巨体ごと。確りと握りこまれて離れなかったルヴネの腕は、全身を振り回す程の力を与えられ、負荷に耐え切れず鈍い音を立てて圧し折れた。そのまま振り回される巨体の重量と血の滑りに従い、掌に刺さった『それ』の右腕がずるりと抜け落ちると、宙を舞った巨体は横手の樹を何本か薙ぎ倒してから地を転がった。

　時間にして、五秒足らず――
　『"元々強い"――そんなことで、勝てると思うなよ』
　そう言った彼の言葉に反してそれは、彼が最も嫌っていた、生まれ持った力による蹂躙そのものだった。



　これだけでは、面白味に欠けるな

　再び声を響かせた『それ』の身体は赤い靄のようなものに覆われており、千切れかけた腕はその靄に繋がれているかのように不自由なく動いている様子だった。傷口は今なおぱっくりと開いているにも関わらず、だ。赤が身体を補い、動かしている――漠然と、そんな印象を受けた。

　周囲を見回した『それ』の視線はわたしを通過して、獅人の長に向けられた。彼は、先の戦いでは手すらかけなかった腰の得物を抜き、下段に構えている。力押しではなく、相手に初動を悟られぬように備える構え。それが、目の前の『それ』への評価を示していた。

　そこの獣は動じないな。少しは、経験を期待して良いのか？

　「――鬼人、というやつか。先人たちが闘ったと聞くが、実物を見るのは初めてだ」

　緊張に、ほんの少しの高揚を交じらせながら、サヴァは手にした大振りの剣の間合いへと、少しずつ身を滑らせる。対する『それ』は、相手の手札が切られるのを待つように、ただ視線を向けるだけでいる。碌に構えもせず、無防備と言っても過言ではない棒立ちで――しかし視線だけが、どこまでも鋭い。





　『鬼は自殺を好む』――わたしは、先刻トレンチコートの男から聞いた鬼人に関する逸話を思い出していた。

　種間における生存競争とは、名の通り生き抜き、子孫を残すことを目的とする。大多数の生物にとって『強くなる』というのは環境への適応の一形態でしかなく、直接戦闘によって雌雄を決する形の競争が最善の方法となることは少ない。まして、個体の生存を放棄してまで強さを求めるならば、それはもはや、生存競争などではありえない。

　にも関わらず、『自殺を好む』とまで言われる鬼の人格が何故、『生存競争用』などと呼ばれる事があるのか――
　それは、もう一つの風評に由来している。

　ただ無為に、世代を重ねたわけではないのだろう？待っていてやるから、早く最高の一撃を出してこい。よもや臆したか？

　「……参る」

　サヴァは挑発に対しても、激昂などしない。鬼人をも打ち破ったという先人が遺した技を、彼は極めきっていた。故に迷いは無く、ただ冷静に踏み込み――目の前の相手に、致命の一撃を突き入れる。相手が超常の力を有する鬼人であっても、体格の差自体が覆った訳ではない。下段の構えに隠された必殺の技の起点は読まれる筈もなく、仮に知ろうともその小さな体躯で届く筈もない。



　危ない。

　直感に従い、わたしは彼らの間に割って入ろうとした。それでもわたしの人並みの運動神経では、速度が絶望的に不足している。交錯の間に一歩を踏み出すのがやっとだろう。

　脳裏をよぎる、もう一つの風評は『鬼は転生する』というもので――

　悠然と立つ身体はそのままに、紅い霧に包まれた『それ』の腕が、唐突に関節を引き千切るように出鱈目に曲がり、延びた。腕の至る先は踏み込んでくる巨体の陰、必殺の起点。

　なんだ、全然進歩していないのかよ――"憶えてる通り"じゃないか

　『それ』は心底落胆した様子で呟いた。





　『自殺を好む』とまで言われる鬼人の人格が『生存競争用』などと呼ばれる事があるのは、鬼人における『個体』概念が、通常の生物とは異なるものとして扱われうるからだ。
　"鬼"を主人格とした鬼人は群れて行動することが滅多に無く、故に彼らをよく知らない者は、鬼とは個人主義であると捉えていることが多い。しかし本格的に鬼について調査したものは、全く逆の印象を抱くという。鬼はどこまでも"一族"を重視する。いやむしろ、我々が鬼の"一族"として捉えているそれこそが、鬼の"個体"なのではないか、と。
　彼らはどのようにしてか、その記憶を共有している。それが『鬼は転生する』と言われる所以であり、相対する者の切り札を受けようとする『自殺』とも言うべき彼らの行動は、一族の脅威を逐一記録し、対策し、『次』から回避するためのものだ。単独行動を好むことさえ、一族が一度に全滅することを防ぐためなのかもしれなかった。


　それが、鬼たちの本能。彼らは己の覇を確認するために、脅威を既知へ堕としにやってくる。『生存競争用人格』と呼ばれるものは、永遠に等しい程の鬼人一族の戦闘経験の集約を司るものだった。





　『それ』の延びた腕がサヴァの両腕を薙ぐように抉り、その巨体が戦意を失い倒れ伏した頃、わたしはようやく、二人のいる所まで辿り着こうとしていた。延びた『それ』の右腕は、関節を失ったようにだらりと垂れ下がっており、代わりとばかりに左腕が、サヴァに止めを刺すため振り上げられている。


わたしは何もわからぬままで、居ても立ってもいられない気持ちに導かれるままに、獅人の長に背を向け、鬼人の少年の前に立ち塞がった。


　なんだ、逃げもしないのか。まさかお前が"経験"を与えられるとでも言うのか――？


　『それ』の問いかけに答えることなく、わたしは目の前の『相棒』を睨みつけた。



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