背に感じる温もりが確かなものとなって数日経つ。
　かつて別たれていた半身との再開を果たしたニグレドは、あれからカサネの右側に立つことに拘らなくなった。
　とはいえ、本来の姿となっても主の毛布役を譲る気はないらしく、今もまたカサネは彼らにもたれて就寝体勢にある。
　それがニグレド側になるのか、ルベド側になるのかはその日の気分なのだというが、今までずっと左側…つまりルベドの側で寝ていた分、ニグレドの比率が高めなのは致し方ないことなのかもしれない。
　そして今宵、彼らとはまた別の変化が一つ、カサネの腹の上で寝息を立てていた。
　すべらかな艶のある毛皮に、銀の一本角をもつその獣は、昨夜まではカサネの腹の上に納まる程度の大きさでしかなかった。
　しかし今、その獣がカサネの腹に乗せているのは頭のみである。
　体がカサネと、ルベドに寄り添うようにして伸ばされ、太く頑強な四本の足は気持ちよさげに投げ出されていた。

　どうしてこうなったのだったか…
　カサネは毛布代わりの狼達よりすべすべとして手触りの良い大きな猫の首を撫でながら振り返る。
　それは、今日の夕食後のことであった。




＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊




「主殿、今日の訓練は応用編だヨ」


　空になった小ぶりの重箱に本日の収穫である慈姑とムカゴを詰め込んでいた時、ニグレドが唐突にそんなことを言い出した。


「……応用編？」


　重箱を風呂敷に包みながら、カサネは思わず鸚鵡返しになる。
　訓練とは、魔力制御能力が皆無のカサネがこの世界で生活するにあたり、必要に迫られ行っているものだ。
　以前は自身の魔力を制御できず、過剰な魔力が暴走しかけて狂化にも似た症状が出てしまったこともあったが、現在は大分魔力の扱いにも慣れてきた。
　だからこそ、ニグレドもそんなことを言い出だしたのだろうが、何しろ魔力関連に対する知識のないカサネには想像がつかない。
　

「そうだ。今まで主殿は我らと魔力の循環を行っていたが、今日は魔力を対象に注ぐ、というのをやろうと思う」


　答えたのはルベドである。
　同じ胴体を共有する首である彼らは、別々の首であるにもかかわらず記憶を共有しているらしい。
　そのお陰でルベドが仲間に加わってからも、何の疑問もなく訓練は進んでいた。


「それは…循環の時に相手に魔力を渡すのと、どう違うんだ？」

「良い質問だ。我等のような契約した獣にを対象に魔力渡すというのは、対価を支払うということ」

「個々によって違いは多少あるけど、魔法一つにつきこれくらい消費する、ってのがあんのヨ」

「渡した魔力量で威力や効果が左右される場合も多い」

「つまり、渡す量を把握しておけってコト。てことで、今日は彼の出番だヨ！」


　そういって首をカサネの足下に寄せたニグレドの視線を追えば、クレノが前足をきちんと揃えて座っている。


――我が姿は魔力の供給量で変わる。今の姿は、魔力の供給が最低限の状態だ

「え?!」


　思わず足元のクレノの顔をまじまじ見てしまった。
　クレノはこの姿が基本なのだとばかり思っていたが、そうではないのだと言う。
　契約者からの魔力の供給は、彼らのような獣にとっては日々の食事に等しいらしい。
　この世界ではネクターがそれに相当するが、戦闘面における魔力の供給は術者のもので賄うのが主流なのだとか。
　要約すると、普段はこのままでも何ら問題ないが、戦闘時には本来の姿に戻れるよう、与える魔力量を把握しておけということだ。


「まずは手始めに、クレノ坊のあるべき姿を解放してみようネ」

「基本的に、循環の際に魔力を渡すのと方法は同じだ。ただ、今回はそれが一方的である、ということが違いだな」

「分かった」


　頷いて、胡坐をかく。
　いつもはニグレドとルベドがいる正面には、クレノがちょこんと座った。
　カサネが掌を上にして差し出した両手にクレノの前足がそれぞれ乗せられる。
　ガタイの大きなアニマと比べるとその光景は随分微笑ましいものだが、いかんせんクレノの顔が大真面目なので暢気に和むのは憚られた。


「それじゃ、始めるぞ」

――いつでも


　クレノが頷くのを確認し、その前足を軽く握る。
　自分の心臓の奥から溢れるものを引き出すイメージ。
　それを両腕に伝え、握る掌からクレノへと流し込む。
　一定の量を丁寧に流し込んでいると、不意に手の中のクレノの前足がしゅるりと解けるようにして形をなくした。


「うわ…?!」

――案じなくとも大丈夫だ。この姿の許容量を越えただけのこと…問題はない

「!!……声も?!」


　いつものどこかぎこちないような子供の声が、少し年齢を経たようにすべらかになった。
　一瞬集中が途切れかけるが、絶妙なタイミングでニグレドから「ハイ、集中してネー」と注意を受け、慌てて呼吸を整える。

　形を失ったクレノの前足は、けれど感触は残っている。
　それは、ルベドが不在であった頃のニグレドの左側にも似ていた。
　魔力を注ぎ込む毎に、その感触は徐々にはっきりとした感触を伴って再構成されていく。
　その頃には、クレノの姿もまた全体的に大きく変貌を遂げていた。

　柔らかかった小さな体がしなやかな筋肉に覆われ、手触りの良かった毛皮はすべらかさを増して天鷲絨のような艶を得た。
　小さな爪は鋭い鉤爪に、見下ろしていた視線は、カサネとほぼ変わらないまでになり、あまりの変わりように半ば唖然とする。
　ただ、カサネに向けられた紅の眼と、額を飾る銀の角だけは変わらない。


「主殿ー！ストップストップ！」

「え…?!あ…」

「変わりように驚いている場合ではないぞ」


　魔力を渡している最中であることなどすっかり頭から抜け落ちていたカサネは、ニグレドとルベドに笑って止められるまで魔力の
供給を止めなかった。
　そのため、正確な供給量を把握することは勿論できず、渡しすぎた魔力をクレノが消費するまで姿が戻ることもなかった、という
わけである。
　木々の隙間から覗く星を見上げながら今日の出来事を反芻したカサネは、小さく溜息を吐いて眼を閉じた。





　目覚めたら、クレノが小さく戻っていればいいなと思いながら。

カサネさんとニグレドさんとルベドさんの一連の流れを眺めて。

くすくす笑った。

（いつもの様に待ち合わせの場所に佇む忍者。
――しかし聞こえてきた獣の足音に目を向ければ、
そこにはいつもとは違う姿が見えた）

（左の首から重箱を受け取ると、早々に丁寧な挨拶を受けて、
ああ、と合点のいった様子の声が忍の口から上がる）

（同じくこちらもその左半身――ルベドへ向けて、丁寧に頭を下げ返す）

（『子供の様に喜んでいた』と聞いて、先日重箱を手渡した際のカサネを思い出す。
…その時の様子から、その姿を想像するのは容易く――
思わず、ふ、と忍の口元が上がる）

（そんな話の最中。
何かに反応を示した獣達は、次の瞬間には黒い炎と成って影を生み、
紋様を描き、みるみる内に術式らしきものを組み上げてゆく。
黙ってその様を眺める忍の前に、程無くして影から見慣れた青年が這い上がって来た）

（労いつつもどこか微妙に笑んだ気配を滲ませていた忍だったが、
ふと思案気な顔を見せ、その先の言葉を止めた…様に見えた）

（それではあまり腹の足しにならぬ――
というよりも、先ず米酒が恋しくなるな…と、ぽつりと付け足して）

眼帯の男が手首をｼｭｯと軽く振って親しげに近づいてきた。

遠くから騒がしい声が聞こえてきた。
そしてその声は徐々に近づいてくる。

…と思た矢先に少年は転倒、派手に水しぶきを上げて川に沈んでいった。