あの光景を、僕はおそらく生涯忘れることはないだろう。
メルンテーゼなど、ここで受けた文化差など足元にも及ばない、言うなれば「世界としてのありようそのものの違い」を見せつけるような、あの異様な世界を。

ヒュドラと無事に契約を結んだ後に解散し、一旦塔を下へ下へと下っていく。
合流するはずの彼らが知るのは入り口まで、あるいはそれすら分からないはずだ。まずは拾いに行く必要があった。
石造りの塔の中に、一人分の靴音と、もう一つの重い足音が規則正しく響く。デビルとパロロコンは飛行し、後者の背にカッパが乗せられている。ドールはいつも通り僕の頭の上に座り、アルラウネは腕へ巻き付く。その後ろをポーンが追う。
新たに契約を結んだヒュドラは、驚いたことにあの巨大な図体と、無数の蛇や人の頭が絡み合ったフォルムでいながらにして飛行していた。あまりにも己の常識を逸したその光景に、原理を問うのはやめにした。どうせ契約した時点で言葉を話さなくなるよう性質を変えるのだから、問うことにも意味は無い。
全員がついてきているかと時折振り返ってはまた螺旋階段を下っていく。周りに誰もいなくてもこうなのだから、話し声や足音で相手の存在が確認できるだけ周りに人を連れている方が楽だと時折思う。

幾度そうした時だったか。その時も僕は、何事も無く振り返ろうとしていた。その時までは何もなかったから。
何かが狂ったのは振り向く寸前からだ。その時に感じたのは、どう呼ぶのが適切か自分でも分からないものだった。全身が総毛立ち息が上がり心臓が早鐘を打つ、そこにあるだけで異常な緊張を強いるようなもの。
只ならぬ異様さの源をこの目で確かめようとして、そこに見たのはもはや塔の風景ですらなく。

背後に広がっていたのはひたすらに続く色のない荒野で、
そこに蠢いていたのは同じく色のない、何なのかよく分からない輪郭を持った影たちで、
それを注視してその正体が、いくつもの腕や足や頭や内臓や、そんなものが体から生えた、人だったものだと分かった時、
僕は自分でも何だか分からないような絶叫を喉から迸らせながら、一も二もなくそれから逃げていた。
ここにいてはいけないと、本能の段階からそう感じる。それほどのおかしさが、生きるものに対する拒絶のようなものがそこにはあって、
ここにいたくないと思っているのに、どこからここに入りこんだのかも、どこからここを抜け出せるのかも分からず。
纏わり付いてくる腕を踏みつけ、呻きを後ろに聞きながら走り続けて、遠くにようやく、人の輪郭を残したものを見つけて。
声を上げようとした途端に、気付く。
あの仰々しいほどの礼装と、白い長髪。そして何より、その手が掴んでいる、蛇と人頭の異形は。
そこまで思い至ったところで、相手は振り向いた。僕がこの荒野で初めて目にした極彩の赤色が、笑みの形に歪んだ。

頬に感じたのは冷たい石の温度、頭に感じるのは、ごく軽く何度も規則的に叩いてくる小さな手の衝撃。
気付けば僕は元通り、あの石の塔の中に居たのだった。怪段途中の踊り場に崩れ落ち、エンブリオに叩き起こされていたという醜態は晒していたものの。
そしてそのエンブリオの中に、あの新しく加わったヒュドラの姿だけが見えなかった。

「ねえ。……ヒュドラ。どこへやった？」
「喰ったよ」

元凶などひとつしか思い当たることはなく、問うてみれば相手はこともなげにそう答えた。絶句する僕に、パロロコンはこう続ける。

「力には興味がある、と言ったろう。……ああ、心配せずとも良い。ヒュドラとおまえの契約は、まだ生きている。あれは私を介しながら、おまえに力を貸すだろう」
「……訳分かんない」
「理解されようとも思っていない」

おまえだけのことではなくて。ヒュドラが消えても契約の保たれる理由も、突然に見えたあの光景が何なのかも、何故あれが見えてしまったのかも。
問いたくとももはや気力が続かず、文句すら出て来ない。冷や汗を適当に拭って、再び下り階段を下り始める。
すまなかったね、と、気持ちの欠片も籠もらないパロロコンの声を背に受けながら。

使えそうなものと見るや、素早く取って懐へ入れてしまう。