風が雪を運ぶ。
　どこかから運ばれてきた白い花は地に落ちるまでには消えてしまっていた。空は晴れ渡っていて雪が降っている訳ではない。遠い場所から風に乗って飛ばされてくるのだ。そして、そういう日は例外なく寒く、風が強い。

「うッう〜、さッみー……。」

　いつものように堪え性のない盗賊が腕をさすりながら空を見上げた。空は高く澄んでいる。だが、こういうときはその高ささえ恨めしい。地に近い辺りでも結構な風の強さなのだが、彼が見上げた空の高いところでは、さらに強い風が渡っているようだった。

「コイツは冷えるな、今晩……。」

　身震いをひとつ、当座の暖を確保し、食事の支度をするために竃に薪をくべ、火の付きやすい枯れ葉や松の笠を適当に寄り集めて組んだ薪の中に入れる。それからアイヴォリーは、外套の内側にある物入れのひとつを探ると小さな球を取り出した。見た目には茶色い指先大の単なるボールだが、時折陽の光を反射して鈍く金色に輝くのは、その表面に描かれた複雑な文様のせいだ。手の中で軽くそれを転がすと、アイヴォリーは無造作にその球を枯れ葉の中に投げ込んだ。

「──小さき火蜥蜴の舌──」

　流暢な森の言葉でアイヴォリーが呟くと、枯れ葉が小さく爆ぜる音を立てながら燃え始めた。森の民、エルフたちが用いる“小魔法”のひとつだ。枯草や微小な火薬などを混ぜ込んで練り固められた丸薬に、エルフたちが用いる独自の文様を決まったパターンで描き込む。それに用いられる塗料も決められたもので、希少な金属粉を決まった配合で溶かして作られた特別なものだ。この小さな丸薬は、エルフたちの言葉で作られた合言葉に対して反応し発火する。“小魔法”というものの、実際にはそれは錬金術に近いもので使用者に魔力は必要ない。決められた言葉の意味を知っている必要すらない。その音に反応して塗料に含まれた金属に僅かに含まれている魔力が活性化し、文様で増幅されて小さな火花を起こすのだ。それが燃えやすくある程度継続的に燃える素材で作られた本体に着火し、球自体が燃え始める。正確に文様を描き込み、正確に発音することが出来れば誰にでも使える代物だ。それは長い森の歴史の中で積み重ねられてきた技術であり、便利な道具であり、人間にとっては驚異の魔法だった。普通に火を付けるためには火打石を用いての作業が必要であり、それには多大な時間がかかる。手間を嫌う魔術師たちの中には威力を微小に制限した発火の魔術をそのためだけに開発する者もいるほどだ。手間をかけず、魔力も消費しないこの小さな球体はまさに森の知恵だった。エルフたちは旅や緊急時の夜警の際に、作り置きしてあるこの丸薬を携えていく。だが、人と関わり合いを持つことの少ないエルフだけに、その作り方は人間たちには知らされない。時折出所の怪しいものが高額で取引されるだけだ。
　アイヴォリーが火を大きくしている間、彼はずっと視線を感じていた。だが、それにはまるで気付かないような振りをして火の世話に集中している。ようやく一段落して彼が腰を上げた頃には、その視線は消えていた。適当に当たりを付け、視線のやってきていた辺りにアイヴォリーが様子を見に行くと、綺麗に切り揃えられ、割られた薪が整理して置かれていた。


「あら、今年はちょっとさびしいのね？」

　冗談めかして言った相方の言葉に、アイヴォリーは苦笑を浮かべて肩を竦める。目の前には乾燥させた肉と野菜から作った煮込み料理。その傍らには辺りから勝手に失敬してきた香草を酢で和えたボウル。このタイミングで庭園に戻ってきたのは幸いだった。庭園の一角に食用の葉物を栽培している畑があることを、この目敏い盗賊はちゃっかり調べ上げていた。

「この前まであんだけ負けが込んでたんだ、コレでもゼイタクな方だと思うぜ？」

　鍋から各自の皿に料理をよそいながらアイヴォリーはメイリーを促す。頷いた彼女は他の二人の天幕へと飛んで行くと大きな声で彼女たちを呼んだ。

「二人ともー、ごはんよー？」

　十分ここまで聞こえてるじゃねぇか、と再びアイヴォリーが苦笑を浮かべる。


　ささやかな食事が終わって、アイヴォリーは火にかけた鍋が沸いているのを見ながら小さな缶を開けた。花のような芳醇な香りが辺りに広がる。ほんの一掬い、小さな匙でその中身を取り出すとそれを別の鍋に空ける。お湯を鍋から注ぎ入れるとアイヴォリーはそれに蓋をした。缶にも蓋をしてそれを背負い袋の奥底にしまい込む。かつて友人として同じ島を探索した精霊の贈り物はこういうときにしか使われない。同じ重さの金と同価値だと言われた紅茶の葉を無限に生み出すこのとんでもなく高価な贈り物は、アイヴォリーにとって大切なときや大切な客人にしか供されることのない最大限のもてなしだった。

「ホラよ。」

　各自のカップに茶を注ぎながら、片方の空いた手で皿をメイリーに手渡す。皿に盛られた、黄金色に焼き上げられたその小さな焼き菓子は蜂蜜の甘い香りを放っていた。
　ぴくり、と不機嫌そうな表情のエルフの少女の眉が動いたのをアイヴォリーは見逃さない。だが、それでも平然とした様子でアイヴォリーは彼女に声をかけた。

「ヤッパアンタの森にもあったか、嬢ちゃん。」

　蜂蜜を混ぜ込んで焼き上げられたそれは、エルフの焼き菓子と呼ばれるものだ。エルフたちが糧食として本当に厳しい旅にだけ持って行くといわれるそれは、一欠け齧れば半日、一枚食べれば一日歩き続けることが出来るという魔法の糧食だった。これだけはアイヴォリーも同じものを作ることが出来ないでいる。かろうじてアイヴォリーに出来たのは、それに近い味を再現した唯の焼き菓子だった。
　ふん、と鼻で笑うようにして、エルフの少女が不機嫌な表情のまま、それを一口齧る。アイヴォリーにしてみればこの制限された環境の中で作った今回のそれは上出来な方だ。だが、それでも彼女の表情が変わることはなかった。

「人間、お前はなぜこれの作り方を知っているの？」

　冷たい目で一言。だが、それに対してもアイヴォリーは穏やかな表情のままで肩を竦めてみせた。

「シーフッつーのはナンでも知ってなキャシゴトにナンねェんでな。色んなコトを知って色んなコトがデキねェと、パーティにもう一人斧担いだ戦士がいた方がイイ、ッてなっちまうからよ？
　知っておるのかライデン、ッてな。」

　意味の分からないことを何かの真似なのか、いかめしい顔でいうアイヴォリー。実際には有耶無耶にしただけなのだが、彼女はそれ以上追及せずに無言のままでもう一口、その焼き菓子を齧った。


「シェリーちゃん、気に入ってくれたかなぁ？」

　夜も更けて。火の番をしていたアイヴォリーのところへ天幕からもそもそと出てきたメイリーがやってきた。熾火をいじくりながら彼女の方も見ずに曖昧なうなり声を返すアイヴォリー。メイリーはそんな彼の横にちょこんと腰かける。

「……ま、全部食ってたしアジはソレナリだったんだろ。ホンモノニャ太刀打ちデキねェケドな。」

「ボクは好きよ？」

　あぁソイツは知ってる、とアイヴォリーが火を見つめたままで、小さく笑みを浮かべながら彼女に答える。既に炎はなく、柔らかな熱を発しながら不明瞭に揺らめく熾火に照らされて、いつもよりも心なしかアイヴォリーの表情もやわらかい。

「ホレ。」

　アイヴォリーがメイリーの方へと顔を向けた。彼の示す地面には、竃からかき出された熾火で作られた小さな星。いつかの島で、こうして過ごした懐かしい思い出。

「懐かしいね。」

「……あァ。」

　そっと頭を彼の腕に預ける彼女の居心地がいいように、アイヴォリーも優しく腕の位置を変えてやる。そのままで何かに気付いたメイリーが少しだけ上を見上げた。

「ねぇ、アイ。雪……。」

　アイヴォリーが空を見上げると、昼間彼が予想した通り、空からは白い破片が舞い降りてきていた。風花ではなく、雪が降り始めていた。この調子だと、明日の朝にはうっすらと積もるかも知れない。明日はさらに早起きか、とアイヴォリーが小さく溜め息をつく。

「ホラよ。んなカッコじゃ風邪引いちまうぜ？」

　エルフの外套を翻して、アイヴォリーは彼女もその中に包み込んだ。かなり大きく作られたそのケープは、巻き方を変えることで手狭ではあるものの二人くらいならば包むことが出来る。二人で顔だけを出して、もう一度彼女はアイヴォリーの肩に頭を預けた。
　かつての出来事を知らないのだから、故郷にあったものにどういう想いを抱くのかも分からない。それでも、懐かしむということは、こうして幸せなこともまたあるはずだ。いつかのとき、いつかの島を思い出しながら、アイヴォリーは心の中でそう呟いた。
　いつの間にか、傍らから小さな寝息が聞こえている。彼女の体温を感じながら、アイヴォリーは今日何度目かの優しい苦笑を口元に浮かべた。
　ときには、こんな日があっても悪くない。

無遠慮に頭をなでる手から、飛び退って逃げた。
手が届かないだけの距離を取り、触れられた感覚を振り払うように、頭をぶんぶんと振る。

怒りで血が上ったらしく、顔は真っ赤だ。斧を持つ手がわなわなと震えている。