薄暗く、湿気た所だった。
　石造りの天井一枚越しにあの熱砂漠が広がっているというのに、茹だる様な熱さは無い。
　代わりに覚えたのは、歩く度に舞い上がる砂埃への不快感と、黴臭さを伴うすえた臭いへの嫌悪感。
　地下牢だと、誰の眼にも明らかだった。
　砂漠という不毛の死地に囲まれた陸の孤島。放られた徒刑囚を決して逃さぬ天然の檻。
　逃げようにも手段はなく、隠れようにも場所がない。昼の焦熱と夜の極寒が通り抜けようとする者から全てを奪い去るが故に、脱出という気さえ起こさせない。
　事実私達とて、あの極熱から避けるためにここへ転がり込んだんだのだ。さながらここは、石造りのオアシスか。事実熱さは免れたものの、目の前の光景はまさに幻覚と呼びたくなる程凄惨なものだった。

　細い通路を挟むように、連立する物は小さな部屋。
　真っ赤な絨毯に、綺羅びやかな調度品。板張りの整えられた客室に、暖かなベッド。そんなものがあれば、どれほど良かっただろうか。
　あるものと言えば、粗末なつくりの壁と、鉄格子。天井から吊り下げられたランプが、僅かばかりの光源だった。その光の影になった部屋――牢屋の内側の闇など、全くもって覗きたくもない。動物のものとは決して思えぬほどの大きさのものが転がっている様な気もしたが、意識に入れずに進んでいく。真正面から見る必要なんて、私達にはない。
　それでも、向かざるをえなくなったのは――眼前に現れた、一人の男によって。








「出番ですよ、可愛い可愛い生なる者たち……」

　地下牢の暗闇から現れたその男に、シセの目は釘付けになった。
　聖職者じみた格好は、この薄汚れた地下牢という場所に全くそぐわない。
　されど次の瞬間、地下牢の中から現れた者達に、その認識は改められる事になる。

　死体(キョンシー)、死体(グール)、死体(スケルトン)――成程確かに、『地下牢で生まれた死者を弔う』というその一点において、聖職者は確かにその役割を果たすだろう。
　されどそれは、永遠の眠りの誘いであり、永遠の生への賦活では断じてない。
　彼らが生前にどれだけの悪業を積んだとしても、その死を愚弄されて良い筈が、ない。
　
　書を片手に聖職者は十字を切る。敬虔で尊い筈のその行為が、今はどこまでも悪辣で、穢らわしさに満ちたものであるかのように映った。
　
　臨戦態勢。男の言葉を口火に、並べられた死者達がこちらを睨む。死者の軍勢という言葉が頭をよぎる。
　探しているのは仲間だ。この牢獄に囚われ、死後も囚われたこの境遇を共有する同胞。我らの苦痛を、無念を後悔を、共に味わってくれる被害者をこそ。
　故にここは地下牢。入る者を決して生には戻さぬ『地下墓所(カタコンベ)』。
　王に近づく者を退ける為に、男は命令を降す。死者はそれに応え、ただ肉を求め蠢き出す。　
　その中で、聞こえた言葉が。

「貴方のため、お役に立ってみせますとも……」

　その言葉だけが、シセの脳裏に深く焼き付いた。　








　戦闘は、終始圧倒だったと言っていい。
　レンツォの指揮の下、アシルの風刃が全てを切り裂き、ニコレットの浄火が全てを祓い清める。
　閉所での戦いとはいえ、所詮は死者だ。既に終わっている肉体に、生者程の耐久力は残っていない。斬り捨て、撃ち払えばそれで終わりだ。肉体の現界を超えた攻撃だろうと、なまじまともな思考の残っていない単調な一撃は、躱すには容易すぎた。
　次から次へと怒涛の如く呼び出される死者達は面倒だったが、そこは狭い廊下である事が幸いした。いくら来ようとも、一度に襲いかかれるのは４人で十分対処できる程度しかない。
　減りは増え、増えは減る。死者の壁は厚く、されどその後ろの男に届かぬ程ではない。一撃一撃の度に、壁は薄くなる。攻撃の速度に、召喚の速度が追いつかない。
　原理は単純で、仕組みは明快。道理に背く死者の生は、逆理を促す司令塔――ラズロさえ挫けば、片が付く。
　すなわち一点突破。背後に隠れる男を引きずり出し、喚び出す間もなく打ち倒す。これがこの場での最適解で、最善手だ。殿で敵からの攻撃を受け止めているシセとて、それは理解できた。
　アシルの刃が風を巻く。ニコレットの槌が光を纏う。あと一歩。攻手は既に、その喉元までに届きかかっていて――

「貴方たちの生は、本当に役に立つ良いものです」

　瞬間――背筋を這う怖気に、シセは思わず正面へ振り返った。
　男の手にした書典が、音を立てて閉ざされる。その背に刻まれた書名が何であるかは読めなかったが、聖人が持つに相応しくない物である事は考えるまでもなかった。
　浮かべる柔和な笑みは崩さず、されどその背に立ち込める気配は腐敗と死気を伴った禍津。
　
　――『死の蒐集(Death assemble)』。
　そう銘された秘蹟が、今放たれる。

　狙いは自分たちではない。あの男の目は、こちらを見ていなかった。
　憐憫と苦渋を綯い交ぜにした様な度し難い笑みを浮かべ、男は手を広げる。
　その指先が触れた死体、否それだけではない。ラズロの周囲にある死体達が、一斉に膝を付いて崩れ落ちる。その身から溢れていた邪気が、次々に男へと還元されていく。
　今や死体達は、本当の意味で何の障害とも感じられなかった。死体の身体に僅かに満ちていた活気は、最早枯渇寸前。先程まで喧しく響いていた呻き声さえ、今は如何程も聞こえない。虫の如き囀りばかりが、輪唱の様にこだまする。
　その枯木を眼下に、ラズロは君臨していた。その身に満ちる生命力は、始まりより高く。漲る活力は、度を超えて迸る。背後に抱えた死色の気配は、紫暗を超えて尚黒く。
　軍勢であった脅威は、最早そこにはなくなっていた。今尚召喚され続ける死体達を考えればそれは語弊以外の何物でもなかったが、軍勢以上の脅威が、彼らの背後に座している。

　早く、一刻も早く。
　背に感じる悪寒は、シセだけのものではなかった。ニコレットも、アシルも、その表情に焦りが浮かんでいる。言い知れぬ恐怖感が、仲間達の胸中を埋め尽くしていく。
　際限ない召喚と、際限ない吸収。それが引き起こす極限への増強と――それから。
　力を、溜めているのだ。
　何か。何かは解らないが、今はその準備に過ぎない。黒肉と白骨の死壁を築き、大口径の砲身と大火力の砲弾を装填している。消耗戦などする気は無かったのだ。相手の狙いは、始めよりその一手。盤上の趨勢を狂わせる、破格の鬼札。
　きっとそれは、撃たせてはいけないものだ。未だ見通せぬその手内は、どの術体型のものとも異なっているが、これ程の大手順を踏むものが生半可なものであろう筈もない。
　『悪夢』の様な災厄が、この場を埋め尽くしてしまう。
　止めなければいけない。撃たせてはいけない。直感は確信となって、仲間に伝播する。シセが言葉を投げるより早く、レンツォは三人へ指示を出していた。
　最早防御は不要。その力を吸われた死体達は、転がっているものと同じ程度の脅威でしかない。故に戦力の全面投入。コレより先は、電撃戦だ。退路は無く、進路を切り開くのみ。
　決意と、判断と、指示と、行動は迅速に。
　悪鬼が散らし、シセの魔法がラズロの範囲内を撃ち、ニコレットが崩れかけた死体(えさ)を余さず摘み取っていく。
　戦場に出来た空隙。吸収しようにも養分は無く、召喚しようにも余暇は無い。生まれた意識の空白に、アシルの身体が滑りこむ。跳ね上げた刃を、最早止め得る物はなかった。








「どうやら強豪揃いのようで……退きますかね。
……ここでは王の力の伝達が足りていないようですし」

　縦に切り裂かれた書典。手から零れ落ちた紙片が、黒色の煙となって散っていく。
　その瞬間、まるで繰糸が途切れた人形の様に、周囲に犇めき合っていた死者達は物言わぬ死体へと変わり、地に転がっていた。僅かばかりの活気も、起き上がる気配も、そこには何もない。
　男の表情は、その時をして何も変わらなかった。物惜しそうな笑みは向けていたものの、聖職者特有の柔和な表情は、決して揺らぐ事無く。
　ラズロの姿が、通路の奥の闇へと溶けていく。出てきた時の逆回しの如く、その気配もまた薄れていって。

「……なんですか」

　その姿を、シセは見ていた。睨む様でもなく、責める様でもなく。ただ、その姿を見ていた。

　何故だか分からない。
　痛みもない。
　それでも私は、この人を許してはいけないと思った。

　少女の中で、言い表せない感情が渦を巻く。とめどなく溢れる想いは、しかし一つとして名付けられずに流れ落ちる。流れ落ちたまま――心の底に、深く積もって。

　シセの表情を僅か眺めていたラズロは、幾許かの間をおいて、静かに闇の中に消えていく。
　その刹那。シセを見つめる男の表情が、笑みから変じる。それは鋭く、そして冷酷に――まるで■■を見るように。
　反応は無く。答えも無い。最後に見せた表情は、紛れも無く笑みだったから。
　果たして今、あの人は何を見ていたのだろう。私を、私の何を――

「これで全部――かしら。
ここは他の人達に任せて、違う所に行きましょう」
「早く出よう。リボンが湿気りそうだよ」

　背後から声を掛けられて、シセは我に返る。
　そうだ。そんなものを考えて、どうしようという。頭を振って、思考を追い払う。出会したものにいちいち気を取られていては、先には進めない。
　そう断じて、闇から振り返る。見つけた出口へと、呼ばれた光の先へと、歩いて行こうと前を向いて――

「よくやった」

　相対した者に、レンツォの姿に、シセは歩みを止めた。止めざるをえなかった。
　少女を見る眼は、いつものものと何ら変わりはない。それでも少女は、眼を離せなかった。

「まさかこんな所があるとはな……新王とやらの施策か、はたまた前王のものか。
どの世界でも、こうしたものは避けられないらしい」


　――『や、やだッ！　眠りたくない……眠りたくない……ッ！！ 』


　シセの脳裏に、死体(キョンシー)の言葉がノイズ混じりに響き渡る。
　何故。何故だろう。何故今、その言葉がフラッシュバックするのか。

「しかし、よもやあんな連中が出てくるとはな。
水辺で出会った兵士といい、人間が敵か。まあ、化物よりはやり易くて助かるがな」


　――『貴方のため、お役に立ってみせますとも……』


　その言葉に、何か感じるものがあったのは何故だろう。
　いや違う。感じるものがあったんじゃない。それは、私がかつて――

「とはいえ、よくやった。御苦労。
あれだけの数を相手取ったのは、初めてか？」


　――『出番ですよ、可愛い可愛い生なる者たち……』
　――『行くぞ、お前達』


　次いで聞こえたのは、ラズロの声に重なるレンツォの声だった。
　今目の前で話しているものではない。それは、この道中で耳にした声。
　何故その声が、姿が、重なって映るのか。

「誇れ。かつて俺が率いた連中でさえ、あれを満足に攻略出来たかどうかは怪しい。
せいぜい、あの死体共の一員になっていただろうが……」


　――『あぁ……嘆かわしい……』
　――『盾にもならないか……『役に立たん』奴だ。下がってろ』


　止まらない。レンツォの言葉を聞く度に、その声が響く。
　全く繋がりのない言葉だというのに、何故。
　何故、こうも重なって響くのか。
　それはまるで、彼とあの人が同じ――


「……お前達は、本当に力強いな。使える。良いものだ」
――『貴方たちの生は、本当に役に立つ良いものです』



　――自分の『道具』を、何とも思わず使い潰しているようで。

　
　地下牢に、少女の絶叫が響き渡る。
　その感情を理解できるものは、少女自身でさえ、誰一人いなかった。