氷のそれは、どうやら主のほかに『あのひと』と契約を交わしているらしいと、テラは言った。
『……氷はいいんですか、テラ』
『だから風よかいいですってば。その事じゃなくってですね』
『言っても、きっとこれは主の特性ですからねぇ』
『……？』
　氷、フェターレと名を与えられたそれは首を傾ける。ウィフトの傍から離れないのは、おそらくそのほうが居心地が良いからだろう。テラは難しそうな顔をしながらその様子に目を向けた。
『……追求したかったですが』
『……無理、みたいですね』
　明らかに、己たちとは違うものが中にいる。主も察してはいるのか、それともそれが何であるかはわかりきっているのか。
　主の夢は、あの異変があってから一度もこちらに見えることはなくなっていた。断ち切られたのだと、それとなく理解しているのは、どうやら一度見たことのある仲間はその様子で、尚の事契約主本人に問うことは、何かが引っ掛かるような心地がして気が向かない。テラは、声を発せるのならと恨めし気にこちらを見てくれたが、伝える気にもなれなかった。フェターレも声を発することはできるようだが、己の意思や思いも希薄なのか、あるいは言葉にする力が、テラやシャールほどではないのか。己たちの間ですら明確な意思のやり取りが難しい。仲間の中では唯一、人の姿に非常に近いのだが、力で言えば一番弱かった。
『……テラががんばって人間の言葉を得たほうが早いかもしれませんね』
『大地は響くことはあっても発しませんですよ』
『言葉はよく染みているでしょう？』
　ぎゅう、と何かを踏んだ時のような、苦慮する唸りが聞こえてくる。シャールは苦笑して、そしてフェターレのほうを見やった。裾を伸ばして、膝を抱えた手を撫でてやる。
『そのうち、ですね』
『？』
　首を傾げる。図ったように契約主が壁から背を離すのが分かって、それで視線をむけた。
　　
　
　

　
　――蛇のことは忘れることにした。
　気づいた時には全部消えていたというか、消されていたというよりはもっていかれていた。残ったのは物理的にも目に見えるもので、その過程に何があったのかは察すべくもない。おそらく好き勝手に動いていた。
　最後に記憶があるのは仲間にものを渡したところで、そのあとからしばらく時間は経っているらしい。一日か二日か。そう思うのは、移動距離が明らかに長時間のものだったからだが。合流したうちの一人が、そんな風な顔をしていたから、特に隠すということもしてくれなかったのかもしれない。
　手記に任せていた記述を消されたのも、おそらくなにか思うところがあってだろう。そう思いながら、白い虎の姿をした一つのすぐそばで膝を抱えているそれを見やれば、ことりと首を傾げて見せた。
　――『あれ』が依代に選んだ割には、不安定だ。あるいは繋ぎのつもりなのかもしれない。これといって強い力も持たない様子だ、だからこそ入り込めたのだろうが。
　もう一つの氷の方を選ばなかったのは趣味か何かだろう。あれの趣味嗜好や興味はエンブリオ自体にも伝播しているらしい、もしかしたら表面に出てこないだけで常に潜っているのかもしれないが。
「……俺こういうの苦手なんだけどなぁ」
　呟けばやはり氷のエンブリオ――フェターレは二度首を傾げて見せる。常に現れ出でる人格は幼い人のそれに近い。だから、尚の事、まるで使い捨てるようにするのは、思うところがあるのだが。相手がこちらに来たのだから、こちらに合わせるという意思表示も兼ねてなのかもしれないが、何を考えているのかはわからない。
　息をつく。片手で弄んでいた紫水晶を見やれば、それを囲った銀の籠には細く小さく何か刻み付けられていた。そこにも何かが宿っている。内包するもの、いわゆる『呪い』の一種であるそれも、度を超えて強化されている。それでも鎖を首に戻せば違和感は少しもなく馴染んで垂れるから、流石ではあるのだが。一人二人には説明した方がいいかもしれない、変なものを拾ってきたのは事実だが、他人に作用するようなものではないから。
　思って嘆息する。面倒なのは苦手なんだがと胸中に落とし込めば、察したようにフェターレがこちらを向いた。また首を傾げる。この動作はこちらに疑問を抱いているというよりも、何かあったのか、という確認に近いのだろう、なんでもないといってやればすぐにまた膝を抱え直して、虎の姿のすぐそばで、テラやシャールと何かしらの意思疎通を図っている。それを見やって、自身の外套を見下ろした。
「……行かなくていいのか？」
　声をかければレーレが顔を覗かせて、しかしすぐに戻っていく。そっかとだけ零して、もう一度四つのほうを見やった。距離があるここでも、さらさらと衣の鳴る音が聞こえる。
　――どうするかな。思いながら、壁から背を離す。移動するのだとそれだけで察した四つが一様にこちらを向いて、それで苦笑した。
「ひとまず外出るか、陰気だし、ここ」
『蛇も出ますしね』
「…………」
『冗談、……とも言えませんし。幸いここからなら水辺の方面にも出られましょう』
　シャールは言って、ふわりと浮かび上がって道を示すように先導する。テラを抱え上げたフェターレがそれに続いて行って、ウィフトの姿は掻き消える。重さのない白いものが視界の端に映り込んだのを見やって、それで三つの後を追って足を踏み出した。まずは外にと腕を引かれるまま、それに続く。
　

　

　
　くいくいと袖を引き、楽しげに水辺を浮遊するエンブリオの一つに、軽く息をつく。
　仲間達は何処にいるのか、思いながら周りを見渡して――不意に、二人の人影が眼に入って、それで眼を瞬かせる。
　

　
　もうひとり。そういえば何度か顔を合わせているのに、名前も聞いていないし名告ってもいないと思い至る。そちらにと思った時に、不意に物陰から物音が聞こえて、そしてあれ、と声を上げた。

水辺で視線を巡らせる。別れてしまった仲間の様子がどうしても気になって。
自然探す様に視線を巡らせて居れば

ようやく見つけた仲間の姿にほ、と笑う。次いでヤサカともう一人の青年へも
視線を移し会釈をしようとしたところで

『ヤサカは、何かそういう、使命とかがあって、なのか？』

至極あっさりと、彼の頼みを受け入れる。
少しばかり考えて言葉を整頓してから、口を開いた。

宙に浮かんだ不思議な色。眼前で名乗られればまあ、と小さな声と共にぱちり、と瞬き一つ。

突然のそれに驚く様子は無く。ただ穏やかに告げられた名前を繰り返す。

宜しくお願いします、と瞳を伏せ小さく会釈した後に、問いかける。
己が知るこの世界のエンブリオとも微かに違う気がして。
それを不思議に思いながらも思ったことそのままを口にした。

　どこかぼんやりとした調子で返した後、笑顔で言う。

　在る筈なんだ、と。胸元に提げた黒水晶を摘まんで見せる。

　言おうか、言うまいか、少し躊躇いながらも、はっきりとその特徴を告げる。

　きっと、関係は無いのだろうけど。自分の世界では、そう在る色では無かったから。だから、吃驚したんだ。こんな事ってあるんだ、と思って。と小さな声で告げ、おずおずと青年の顔を見上げた。

ありがとう、と。呟くようにその言葉に返す。
それから揺れる銀と紫を見た。直接目にするのは、初めてなそれ。
だから、それが変わり、より濃くなった事も、少女は知らない。

ただ、

あー、と。力無く、唸るように上げていた声を思い出す。
あの時微かに感じた、空気のような、残り香のような、色。あれは。
その紫から感じるそれと似ているように思ったから、今更のように問いかけた。
前に彼が『共鳴』した時と同じ。その飾りが関係していそうだったから。
深く踏み込まない、と自制していた気持ちよりも、心配が、勝って。

確信のない、答えを拒むことが出来る、そんな言葉の強さで、そっと。

あの時の心の乱れを思い出せば、少し気まずいような、恥ずかしいような気持ちにもなり。
そうして濁る語尾を気取られないように、そう言えば、と少し強引に話を切り替えようと。

杖を手に然りと握り、一歩前へ。
娘は、同じく前列に立ったルド達を見、笑う。

今回は自分は守り手ではない。だからこそ傍らの仔リスへとそっと声をかける。
くるり、肩から降りた時には仔リスは人の少女の姿へなっており

仔リスから変化した、にこにこと屈託なく笑う小さな女の子がそこには居た。