世界はゆるやかに夜を迎える。
　屋敷の軒先が、並ぶ竹林が。それぞれ薄影を落とし、静かに黄昏へと呑み込み込まれていく。
　閉じていた瞼を開ける。目の前にはほどよい暗さが広がっていた。もう半刻もすれば夜中と呼べる時間帯にもなろうか。
　頃合いだね。そう呟くと。長く硬い両手の爪を重ね合わせた。

　爪の間から生まれたのは、ギリギリと重く擦れ合う、錆の浮いた様な鈍音だった。
　だが何故か。鉛の様に重たげなその音は、さながら澄み切った音叉の清音の様にどこまでも広がっていく。
　

　さあ。合図はしたよ？　今から行くよ？


　それは主の住まう屋敷を抜け出して、一人街へと繰り出した。
　青白い顔に浮かぶ、酷薄な笑みと共に。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

　それは影のように静かに、そして影よりも疾く。誰もいない街道を堂々と突っ切る。
　夜こそがそれの生きる世界。目に突き刺さる光の無い世界はなんと駆け抜けやすい事か。
　主と契約する以前より、行っていたことであるというのに。どこか楽しく感じる。
　束縛からの一時的な離脱。そこからくる解放感、とでも言うのだろうか。
　制約や枷がある状況を知るからこそ、締付けを忘れた時に感じるこの身軽さはひとしおだった。
　もう自由は失ってしまった。それをまた得られるかは、主の腹積もり次第。
　いつの日になるかは分からない。しかし解約の日が訪れるまでは主に付従い、たまに主の目を盗んで今宵の様に発散に行くという日々を送るのも悪くはないかも、と思った。

　そんな事を考えつつ、それは走りながら立ち並ぶ民家へと目を配らせる。

　ちゃんと聞こえていたみたいだね。

　くすりと笑んだ視線の先には、固く閉ざされカーテンで仕切られた窓、窓、窓……。
　防犯対策。夜も更けたこの時分、そう考えるのが最も自然だ。
　だがそれにしては過剰であるとも言えた。
　今はまだ、おおよそで言えば20時になった頃合いだ。
　本来ならば仕事を終えた者たちで酒場が最も盛況する時間帯でもある。だというのに、全ての店は民家同様固く戸を閉ざし真夜中の沈黙の中に同化していた。

　ふふ……

　それは笑う。笑いながら、レンガの敷き詰められた地面を蹴って、ふわりと飛ぶと、民家の屋根へと足場を移す。
　進むたび、途切れる屋根を飛びつたい。躍るように軽やかに。ただひとり、闇の舞台を縦横無尽に駆け回り。

　やがてそれは目にするだろう。

　とある民家の小さな窓を。
　ひらひらと夜風に揺れるカーテンを。

　みぃつけた

　笑う。笑う。愉しげに。

　愉しげに。窓へと向けて飛躍する。

　そこに居るあなたはどんなヒト？
　迷信風情と考えて、強気に窓を開けたのかな？
　それとも最後の一つを忘れてしまった、本物のうっかりさん？


　もしかして、ママの言いつけを守らなかった悪い子かな？　だったら、とっても嬉しいな。


　高く掲げた爪が鳴る。喜びに震えるように。

　そして次の瞬間。それは掲げた爪を振り下ろし。


　――飛来した影を、叩き落とした。

「……あーあ」

　落胆の声がこぼれた。
　この動きは、それにとっても予期せぬものだった。
　無理な姿勢で動いた体は失速し、目指した窓へと届かずに止まってしまう。

　それは空中でくるりと体を回すと、そのまま近場にあった屋根に着地し、

「残念。見つかっちゃった」

　街道を見下ろしながら呟きながら、それは暗がりに立つ影を捉えていた。

「前々から思っていたが、本当に当たらないな。この技は」

　右手。異国のランプを前方に突き出すという、さながら拳銃を構えているような姿勢でゼゼ・レプトは不服そうに言った。

「違ウ。当タッタガ、捌カレタト言ウノガ正シイ」

　応答するのはカンプと名付けられたナイトスピリットのエンブリオ。黒い靄のような体を揺らし、ゼゼの前に躍り出る。

「ソレニ、傷ヲ負ワセル事ハ本意デハナイト聞イテイタガ」

「まあその通りだ。ご苦労さん、カンプ」

　ゼゼが手にしたランプを撫でる。それはカンプに戻れという合図だった。

「次ノ望ミヲ待ツ……」

　それだけ言い残すと、カンプの姿がぼわっと霧散する。
　完全に黒い霧と化した夜精のエンブリオは渦を巻くように様に錐もみしながら、ランプの中へと消えていった。
　
「さて……待たせたな」

　手にしていたランプのチェーンを腰布に巻きつけると、ゼゼは改めて屋根の上の影の方を向いた。

「とりあえず。降りてこいベロキ」

「はーい」

　反発もせず、間延びした返事を返し。
　ベロキと呼ばれた存在は屋根を軽く蹴って跳躍すると、ゼゼの正面に着地した。

「どうも。こんばんわゼゼちゃん」

　悪びれもせず、屈託なく笑って見せるベロキの姿は、一目では背の高い人間の女そのものに見えただろう。
　ゼゼの目線よりも若干低いその背丈は、170センチメートルほどか。
　すでに冬季に入っているというのに、肩と胸元を大きく露出させた随分と寒そうな服装をしている。彼女の季節感を疑う等して、それだけでも目を引いただろう。だがそれにも増して、黄昏のような橙色の癖毛は目に鮮やかであり、女性らしい丸みを帯びながらもスマートな肢体は異性同性関わらず、羨望と時には嫉妬の込められた視線を送られることもある、だろう。

　彼女の薄灰色をした素肌を魅力的と思えたならば。

「こんな時間にどうしたの？　夜遊び？」

　おどけるように冗談を口にしつつ、ベロキは笑みのこぼれる口元を自身の指で隠してみせる。
　上品そうな仕草ではあるが、その五指は鋼鉄の鉤爪だった。
　細くしなやかな腕の先端。彼女の両手首には、義手のような鉄製の手が嵌められている。
　驚くべきことに、その鉄の手は生まれつきである。そう、彼女自身から聞かされた事をゼゼはふと思い出していた。

「夜遊びなどするか。そんな呆けた真似をしている暇はない」

「そうかしら？　息抜きも大事だと思うけどなあ。特にゼゼちゃんは根を詰めちゃうタイプらしいし」

「ちゃん付けは止めろと言っただろう。そんなことより、お前は屋敷を抜け出して何をするつもりだったんだ？」

　鋭く細まる爬虫類の目が、ベロキを睨み付ける。
　おやおや、ご立腹だ。
　そんな事を考えながら、ベロキは答える。

「ご飯を食べに来ただけだよ？　竹林のお屋敷じゃ食べられない物だからね」

「飯にありつけるだけの金を渡した覚えはないが？」

「実は！　タダで食べられるものなんだよ？」

「無銭飲食か。太い野郎だな」

「あ、ひっどいなあ。私そこまで太くないし、野郎でもないよー」

　子供の様に頬を膨らませ、ベロキは拗ねてそっぽを向く。

「……ふう」

　堪えきれず、ゼゼはため息をつく。
　ベロキの挙動一つ一つの芝居がかった振る舞い。その薄っぺらさには、辟易せずにはいられなかった。

「回りくどいのは抜きにしよう」

「いいよー。ゼゼちゃんも大体わかってるみたいだしね」

　そうでもなければ、私を狙撃なんてするはずもない。
　ほぼ確信めいた答えを持ちつつ、ベロキはゼゼの言葉に耳を傾ける。

「ベロキ。お前はニンゲンを喰らうのか？」

「うん」

　ほぼ即答に近い肯定。そして、

「特に子供の肉が大好きだよ」

　次がれた言葉は、笑顔と共に。

　――ブラックアニス。老婆の姿をした人食いの妖精。
　その爪が鳴り響いた晩。ブラックアニスは街に降り、人を狩ると言われている。
　
　外見こそ若々しく見えるが、その習性は聞いた通りであった。
　面倒なことになったものだ。そう思いうんざりした雰囲気に気付いたのか、
　
「あれ？　ゼゼちゃんってそういうの気にするタイプだったのかな？」

　不意に。ベロキはゼゼの表情を覗き込むように、微笑する顔を近づけてきた。

「……近い」

「はいはーい。でもちょっと意外。ゼゼちゃんならこういう事には理解を示してくれるって、思ったんだけどな……」

　

「家畜が草を食むように。その家畜の肉を人間が食べるように。ブラックアニスは人間を餌にする。これはただのそういう摂理だよ。
　誰が何を主食にしてたっていいじゃない。それに文句を言っていいのは、食べられる側だけのはずじゃない？
　ゼゼちゃんはどう？　蜘蛛が蝶を食べる事を残酷だって文句を言うの？　狼が兎を殺すのは可哀そうだから止めろって言うの？」

「……」

　これは捕食者と被捕食者の問題。部外者は黙っていろ、と。
　実に、まともな意見だ。
　糧をなくして、命は生きることは出来ない。そして何を糧にするかはその種族ごとに千差万別。
　ベロキが言っていることは、どこにでもある摂理だ。分からない道理はない。
　しかしそれでも、ゼゼはベロキの言葉に口を挟む。

「だが一揆には」

「一揆の参加者には人間が多いから……なんてつまらない気遣いが理由なら、私は聞く耳持たないからね？」

　先取りしたセリフで相手の言い分を遮ると、ベロキは得意げに微笑み返す。

　果たして、主となったトカゲはどんな言葉で私を説き伏せるのか。それにどう反撃して言いくるめてみせようか。
　童女のような無垢な笑みを、魔女の如き妖艶な色に変えて、ベロキはゼゼの回答を待つ。

「……弱ったな」

　やがて発せられた言葉は、

「お前の言ってる事は至極正論だ。そいつを差し押さえられると、禁止する理由が思い付かん」

　期待していたよりも、随分と弱気なものだった。

「降参ってこと？」

　だとしたら、なんとも。張り合いのないことか。
　
　気ままに出来るのは勿論歓迎だ。
　だが、こうも簡単に折れてしまうと拍子抜けしたと言わざるおえない。
　
　――もっと面白い奴かと思ったんだけどね……

　減点だ。こんなことで、今後の生活を楽しめたものか。
　そうベロキが考えていると。

「仕方ない」

　ゼゼの口から零れる、またしても白旗を振るような言葉。
　ああ、うんざりだ。　出し抜き甲斐の奴の相手など楽しくないというのに。

「悪いな」

　――何が？

　聞き間違い。ベロキがそう思う。

　だが既にゼゼは腰に備えたランプを撫でていた。

「――叶エヨウ」

　ランプの口から飛び出した夜精が、ベロキの顔目掛け肉薄。
　咄嗟、ベロキの爪が顔を守ろうと動く。しかしそのまま衝突する寸前、カンプは全身を夜よりも暗い国霧へと変化させる。

　ベロキの視界が、完全に閉ざされる。

「ちっ！」

　防御を解き、ベロキは爪を振り回してカンプ作った黒い霧のカーテンを払う。

　晴れた先に、ゼゼはいなかった。

　その代わりにチクリと、何かが肩に刺さる感触と浅い痛みを感じた。

「ブラックアニスはケガを負ったなら、その時点で住処に戻る」

　合っているか？　と、ゼゼはベロキの背中から語りかける。
　その爪は今。ベロキの露出した肩へと浅く刺さっていた。

「イカサマ……不本意なんじゃなかったの？」

　薄らと血の滲む肩を抑えつつ、ベロキは背中のゼゼへと向き直る。

「不本意だとも。こんな真似をしなくて済むなら、それに越したことはなかった。
　だが甘いことも言ってられん。人食いを飼っているという噂が立たれるのは、正直勘弁してもらいたい」

「それで実力行使？　案外形振り構わないのね」

「返す言葉もないな……」

「……まあ、いいわ今日のところは。
　それに、自分の配下の言いなりになる主人なんて、ろくなもんじゃないからね」

　そう言ってベロキは苦笑する。それを見るゼゼもまた、バツが悪そうに視線を逸らす。

　――まあ今ので少し加点かな。ただの頭でっかちではなさそうだ。

　けど。

「今日はご飯抜きか。こればかりはちょっと……」

「ああ、それなら俺が今からひと狩りしてくるぞ。飯を邪魔して何もしないわけにもいかんからな」

「ゼゼちゃんそれほんと！？」

「ああ。何か注文があるなら聞いてやるぞ」

「それじゃあ、人間の」

「ニンゲンの子供以外だ。あまり調子に乗るな」

「はいはーい」

ゼゼの問いに青年は小さく笑うと肩を竦めてみせた。

簡潔に、そうとだけ答えるのである。
慰めてくれる様子には微苦笑浮かべつつ、

女装、とは言ったがソコまで心配するほどのものではなかったのだと一言。
ずいぶんと気を使わせてしまったことには、気にするなと声をかけておく。

彼の反応をどこか面白そうに眺める青年は微苦笑を浮かべた。

ポツリと、呟く。

そんなぼやきもポツリ。

じっとオウラスを凝視していたサラマンダーは、
オウラスが近づくと見るやいなや、大きく口を開けて飛び掛った！

飛び出したサラマンダーをなんとか空中で捕らえ、押さえ込む。

頼花に捕らえられ狩りは諦めた様子だが、
口からは白い湯気をもうもうと立ち上らせている。

小瓶から少量の火薬を薬包紙にとりわけ、ゼゼに手渡した。