『アーリーシーアー』
『あっ、アリシア、おむかえきた！』
『ほんとだ！　おむかえ！』

　砂場で一緒にお城を作っていたらしいまだ８歳にもなっていないだろう少年と、それよりも更に小さな少女が揃って立ち上がった。
　公園の入口では買い物袋を提げた少女の母らしき人物が少女に手を振っている。

『じゃー、きょーはもうかえらないとな！　カラスないたし！』
『ないた！　かえる！』
『へへ、アリシア、またあしたな！　あしたはブランコやろ！』
『うん、ブランコ！』

　少女と少年は同じ歳には見えないが、それでも仲睦まじそうに笑い合って明日の予定を決めていた。
　きっとその予定も明日には忘れて違うことをしているのだろうが、二人にとって大事なのは明日もまた遊ぶという約束だ。

『それじゃあなー！』

　そうして少年はいつもの調子で手を振って少女を見送ろうとした。
　ただいつもなら手を振り返して母の所に歩いていく筈の少女が、ぴたりと少年を見つめて止まったままなので、首を傾いだ。どうしたんだろうと。

『アリシア？　かえんないの？』
『……ルカは？』
『おれももーかえるよ、おそくなったら、おこられるし』
『おむかえは？　ないの？』
『おむかえ？』

　子供の疑問は唐突に何処からか舞い降りてくる。昨日は気にもしていなかったことも、急に明日になって気になったりする。
　少女の疑問はそういう類のものだった。少女が少年と遊んだのは今日が初めてではないし、少年にお迎えがなかったことも当たり前のことだった。
　ただ、突然。今日になって初めて気になったのだ。自分には母、時たま父のお迎えがあるが、少年にはそれがない。
　なんで？

『おれはないよ、いんちょせんせは、いそがしーもん』
『じゃあ、ルカ、ひとり？』
『うん、ひとり』
『さみしくない？』
『いつものことだし』

　別に気にしてないもん、と少年は両手を頭の後ろにやって、へへっと笑った。
　少女も少年の対応にそっかーと返す。いつものことで、さみしくないなら、いいんだろうか。いいのかなー。そんな感じ。
　けれどやっぱり、と少女は母を振り返った。
　ああやって笑顔で迎えに来てくれるお母さんが居て、少女はいつも嬉しい。でも、目の前の少年にはその嬉しいがいつもないのだ。それはなんだか、なんだか悲しい。

『いいことかんがえた！』

　ぽんっと少女が手を打った。いいこと、と聞いて少年もなになに？　と興味津々である。
　少女はにっこりと笑って、少年の手を取った。どちらの手も砂に塗れて汚れてしまっていたが、そんなこと今更気にすることもなくて。

『あのね、おむかえないのは、やっぱりかなしいからね、だからね、ルカにおむかえがないんだったらね――――』

　そうして少女が提案したその言葉に、少年はとてもとても嬉しそうに笑って、少女をぎゅっと抱き締めた。

*

「……ッはぁ……」

　風邪が悪化していた。それもそうだ。慣れない山を登って、慣れない技を連発して、負担がかかっていない方がおかしい。
　昨日とは比べ物にならない頭の重さ、漏れる息は熱くて、身体は暑いんだか寒いんだかよくわからない。
　起き上がるのには苦労したが、それでも身体を起こしてしまえばこちらの勝ちだとベッドから抜けようとする。
　そんな自分を見下ろすのは、今日はピユ。エティはゼスと話があるとかで、朝からどこかに行ったままだ。

「あ、アリシアさん、だ、だめですよう、寝てなきゃ、つらそうですうぅ……」
「……い、いの、へいき、寝てる暇あるなら、ちょっとでも、いいから」

　帰る手がかりを見つけなければ、と。そう口にすると、ピユは更に悲しそうに眉をハの字にさせ、涙を浮かべた。
　普段なら、こんなピユの表情を見たら少しは戸惑ったのかもしれない。けれど今日は違った。何かが自分を急き立てている。じっとしている場合ではないと、早く帰らなきゃいけないのだと。
　確かに早く帰る手段を見つけなければとは今まで思ってきた。しかしその思いの強さが今日はいつもに比べて格段に強い。理由はわかっている。わかっているからこそ、なのだろう。
　自分のことぐらい理解している筈だ。けれど頭では理解していても、心が受け容れてくれない。受け容れない心が、自分を急き立てる。逃げさせる。

「……、っ……」

　ベッドから立ち上がろうとして、ふらついて、膝を付いた。ピユが慌ててこちらへと降りてくる。けれど、小さなその身体では何が出来るわけでもない。術で治るそれでもない。
　本当なら、本当なら今日は休みだ。昨日は山に登って疲れた。明日はまた、違うメンバーで山を登る。だから今日は休んでおこう。そう提案したのは確かシズだったと思う。
　休めるときに休むことは大事なことだ。この体調なら尚更だ。だけど、出来ない。休むことを自分が許さない。禄に動かない身体を、心は動かそうとする。私もそれに逆らわない。
　なんとか近くにあったテーブルに手をつき、立ち上がろうとした時だった。コンコンと、どこか控えめにドアをノックする音が聞こえたのは。

「……アリシア、シズが薬って、えっと、はいる、ぞ？」

　ドアの向こうから発せられた声に驚いたらしいピユが、わたわたと慌ててふよふよと枕の上に移動する。
　扉が開いたのはその次の瞬間。いつもの服とは違うシャツとズボンだけという部屋着を纏った彼が、そこに立っていた。
　手にはシズから貰ったらしい薬を手にしていたが、自分の姿に気付いて目を瞠って、慌ててこちらに駆け寄ってくる。

「あ、アリシア、大丈夫！？　ってうわ、熱あるし！　立ち上がっちゃ駄目じゃん、寝てなきゃ！」

　彼は自分の肩に手を置いて、とにかくベッドに戻さなければならないとあたふたしている。
　けれど自分はその言葉に、すぐに返事を返すことが出来なかった。
　どうしてか、なんて。それは。

「……へいき、今日は、今日は町で、情報収集する、から」
「何言ってんだよ！　こんな身体で無理だって！　今はとにかく休まなきゃ、全然動けそうにないし！」
「……、……大丈夫、大丈夫だから、だから、帰る為の、情報。……私が、私がルカたち、連れてきたんだから、」

　声が掠れる。喋るのも辛い。本当は分かってる。こんな身体で情報収集なんて出来ない。なのに自分は無理をして、無理をしてでも。

“――無理する建前に、二人を使う必要がどこにある”

　突きつけられたその言葉は、未だ容易に思い出せる。
　そんなつもりはなかった。本当にそのつもりだった。でも、結局はつもりだった。
　本当は恥ずかしかっただけだ。自分勝手な行動で人を巻き込んで、その巻き込んだ張本人が”　　　　”なんて言葉を吐くことが。
　そんなことは許せなかった。だって悪いのは自分なのだ。

「連れてきたって、俺ら勝手に追いかけてきただけだし！　アリシア悪くないし！」
「……私が、うさぎ、追いかけなきゃ」
「気になったんだから仕方ないじゃん！　アリシアだって、こんなことになるなんて思ってなかっただろうし」
「それ、でも、……それでも、私が。だから、早く、帰るための」
「……――っ」

　わかっている。今自分が無理をしようとしているのは、誰かの為なんかじゃない。
　そうなんだ。建前に過ぎなかった、二人の為になんて、そんなこと。
　責任を感じているように見せて、結局は、本当は。

「――今は、帰ることよりも、アリシアの体調のが大事だろ！」

　ほんと、は。

「……、……ちが、う」
「違わない！　帰っても、アリシアがこんなんじゃ、帰ったところで仕方ないじゃん！」
「ッ、仕方なくなんかない！！」

　どろどろとした感情が喉元の、すぐそこまで辿り着いていた。
　熱に浮かされた頭はそれを抑える術を知らない。
　汚い、黒い感情が、全部、全部。

「仕方なくなんか、ない、帰ることより、大事なことなんて、ない、帰んなきゃ、いけないの、帰らなきゃ」
「だから、俺は、……俺も、シズも、そんな、早く帰ろうだなんて、思ってないし」

　違う、違うんだ。そうじゃないんだ。
　本当は違う。わかってる。

「だから、アリシア、」
「……そうじゃ、ない」　

　この世界で新しい朝を迎えるたびに増していく想い、苛立ちに。

「そうじゃないって、でも、……あ、ありし――」

　心は、限界だった。

「――止めんな！！」

　こちらに手を伸ばしてきた彼の、その手を弾いた。乾いた音が部屋に響いて、ピユの小さな悲鳴が聞こえて。
　彼を見遣ると、大きな丸い瞳がいっぱいいっぱいに見開かれて、不安定に揺らいで、それに胸が痛んで、けれど溢れ出した感情はもう止まらなくて。

「どうせルカには私の気持ち、わかんないだろ！？」

　怒鳴る。叫ぶ。声が掠れる。

「早く帰りたい私の気持ちなんて！　早くお母さんとお父さんに会いたい私の気持ちなんて――！！」

　それ以上は言っちゃ駄目だって分かっているのに。
　なのに。


「――親の居ないルカになんか、わかるわけないッ！！」


　なんで、私は　こんな　、


　吐き出した言葉を、投げつけたその言葉を、もう一回元に戻すなんて、そんなことは勿論不可能だった。
　静寂が部屋を包む。彼の顔を、見ることが出来なかった。後悔が胸を包む。でももう手遅れだった。
　なんて酷い言葉だろう。絶対言っちゃいけない言葉だ。傷つける為だけの言葉だ、こんなの。
　そんな言葉を今私は、彼に投げつけたのだ。昔からずっと横で笑って、一緒に遊んで、こっちに来てからも自分のことを少しも責めなかった彼に。
　募った苛立ちを、不安を、焦りを、抑え切ることが出来ないで。心配してくれていただけの彼に、全部ぶつけた。
　最低だ。

　沈黙はいつまでも流れていく。もしかしたらこのまま永遠に続くんじゃないかって、そんな錯覚さえ覚えた。
　勿論そんなことはない。永遠なんてそんなもの此処には存在しない。

　静寂は、破られる。　

「……――は、ははっ、」

　彼は笑った。

「はは、そー、だよな、ごめん、ごめんな、アリシア」

　いつものように笑った。
　傷ついていないような口振りで、まるで本当に自分が悪いみたいに頭を掻いて。
　そしてその手でそっと、私の頭を撫でた。

「アリシア、ごめん、アリシアの気持ち、俺、全然わかってないや」

　ごめん、と彼は繰り返す。震える手で私の頭を撫でる。
　謝らなければならないのは、こっちなのに。それなのに声が出なかった。

「でも、さ、その、お願いだから」

　彼は笑っている。泣きそうな顔で笑っている。
　傷ついているのに、笑って。

「無理は、しないでほしいんだ。休んで、ほしいんだ」

　腕を引かれた。抵抗する力を無くした身体は、そのままベッドへと導かれる。布団の上に座った瞬間、ぽすんと気の抜けた音が耳に届いた。
　そうして自分をベッドへと導いた手は直ぐに離れる。
　ふっともう片方の手に目を遣ると、その手は何かを耐えるかのように、強く、強く握り締められていた。

　指の先が、真っ白になる程に。

「……お願い、だから」

　懇願するその声が、震えていた。
　それでも笑みが消えることはなく、そのまま、そこにあって。

「……じゃ、薬、テーブルに置いとく、な」

　決して自分には笑み以外の表情は見せずに彼は自分に背を向けて、そしてテーブルに白い袋をそっと置いた。
　それからは振り返ることも、それ以上何か言葉をかけることもしなかった。
　ただ自分から彼が離れていく足音と、ドアが開き、そして閉まる音だけが、静かに部屋に響く。





「…………ぁ、」

　そうやって部屋を二度目の静寂が包んで、漸く漏れ出た声。

「る、か」

　名を呼んだ。
　もう此処に居ないのに、呼んでも仕方ないのに、遅いのに。
　視界が滲む。胸が痛い。頭が痛い。ただただ苦しい。

「あ、アリシア、さん」
「……わ、たし、何、言って、なんで」

　ぽたぽた。零れ落ちる雫が布団に幾つもの染みを作っていく。溢れる。溢れていく。止まらない。
　思い出すのは彼の笑みだ。泣きそうな顔だ。震えた声だ。それでも笑う彼の強さだ。

　帰りたいのは私だった。
　寂しさに耐え切れなくなったのも私だった。

　言うのが恥ずかしいから建前なんか使ってた。その為に無理してるだなんて馬鹿げた理由をつけようとしていた。
　だけど、それでもだ。
　二人を守りたい気持ちだけは、本物だった筈なのに。　

「…………さい、てい……ッ！！！」

　彼を拒絶した愚かな右手が、ただあつい。

笑う、わらう。
絶やさず、いつも通り。 足取りは軽やかに、泣き腫らしたんだろう、目だけは隠せない。

腰を落とし、負ぶさっていたちえりを地に立たせて。

至極簡単に魔術の説明をした後に、エレネは恥ずかしそうに答える。

ぱぁぁぁ　という表現がぴったりな笑顔を向ける。
自身の生まれ故郷に興味を持って貰えたのがよほど嬉しかったようだ。

話がずれてきたなか、違う世界に行く方法を問われるときょとんとして。

寂しげなアリシアの声に反応して、視線を下げ。
呼吸を整えようとする仕草にも構わず、彼女の瞳を覗き込む。

一度口を閉じ、その心証を確かめるように真っ直ぐ見据えて。
されど、そのフィンの表情は変わる事無く。

問い掛けるというよりは、疑問を投げ掛けるのに近い。
それは瑣末な違いだったけれど。



ずっと一緒に、仲良くいたいのだと、
その言葉に、アリシアの頭を撫でた。
あの二人もそうだろうさ、と、この男にしては柔らかい声で言った。

それはある種の信頼であり、
酷く不安定な形をした、確信だった。

軽く服を叩いて、周囲を見渡し。
特段の異常の無いことを確認して、得物を仕舞う。