手当てを終えた人間は、乱暴に、けれど何処か優しさを感じさせるような手付きでぼくの頭をくしゃくしゃ、と撫でた。今日何度目かのその行為にぼくはすっかりと慣れてしまい、自然と目は細まり人間の指の感触に心地よさすら感じ、されるがままになっている。



　あの後。――人間がぼくの傷を手当てしたいと頭まで下げてくれた、あの後。
　ぼくは人間の取ったその行動に、当然驚いた。驚いて、そして。自分の願いを、思いを叶えるために自分のプライドすら捨ててしまう人間に、――彼に、ぼくは根気負けしてしまったのである。
　両手から牙を向くように出されていた鋭い爪をしまい、おしりを地面に付けて座り直す。それから、もう一度だけ人間を見上げて、ぼくは完全に警戒を解いた。
　寝床から少しばかり移動していたぼくは、草の敷き詰められた寝床に向かって180度回転し、ゆっくりとした足取りでその寝床に向かう。数歩ほど歩けば肉球に草のカサッとした感触を感じ、いつものように円を書くように回ってからそのままくるり、と身を丸めて座り込んだ。お腹を草に付け、伏せに近い体勢を取る。
　その際、ぼくは両腕を前に突き出し、人間の視界にしっかりと移り込むようにしておいた。これは、人間が武器は出しませんよ、と両腕をぼくの見える位置にキープしてくれていたのと同じことで、ぼくの武器、爪は出しませんよ、という意思表示であり、ぼくなりの配慮なのだ。

　ぼくの一連の動作を静かに見守っていた人間は、ぼくが寝床で丸くなり、大人しくなったのを確認すると、“救急箱”と呼ばれた先ほどの小さな箱を持ち上げ、こちらに近付いて来た。警戒を解いて受け入れようとは思っているものの、やはりちょっとの恐怖心がぼくの表情、身体を強張らせ、人間から目を離すことが出来ない。
　そんなぼくへの配慮なのだろうか。人間は膝を折り、ぼくの目線と自分の目線をなるべく合わせるようにして、それでいて静かに、ゆっくりと、余計な恐怖心を与えないようにしてくれているかのように、人間はこちらに近付いて来る。
　自分の身体に人間の影が掛かる頃には、人間のその配慮のお陰か大分恐怖心も薄らぎ、ぼくは人間から目を背けることが出来た。
　人間はその場に片膝を付けると、持っていた救急箱を地面に置き、パカッと箱を開ける。先ほど嗅いだ、つんとした臭いが鼻を掠めた。
　そこから人間は、手慣れたようにぼくの傷の手当てを始めた。ぼくはなるべく大人しくしていようと、手当ての際に生じるちょっとした痛みには身体を反応させないように平然を装って、興味がなさそうに視線は遠くの方の茂みに向けていた。
　人間は手当てがとても上手く、あまり痛みを感じることも無かったのだが、箱から何やら白い、変わった形状の物を取り出したのが視界の端でちらり、と見えた時に、

　そう、消毒液という物の説明を人間はぼくに話してくれた。その表情は何処か申し訳なさそうな色をしており、染みて痛みが出る、というのは本当に痛いのだろうな、と予想がつく。けれどぼくは、もう何度もこうした傷を負っており、痛みというのにはすっかりと慣れてしまっているのだ。我慢してくれよ、と辛そうな表情を見せる人間には申し訳ないのだが、どうということはないと興味を無くし、また視線を逸らす。
　ぼくが視線を逸らすと、構わないから続けてくれ、という意志が伝わったのだろう。人間はぼくの身体でもっとも傷が酷い両腕の、片方の手をそっと持ち上げた。肉球に人間の体温が伝わってきて、その慣れない暖かさに少しだけ手がぴくり、と反応してしまったが、ぼくは振り払うことはせず、暖かい人間の手のひらにぼくの手をそのまま乗せておく。
　「染みるぞ？」と念を押すようにもう一度人間はぼくに声を掛けて、そしてその白い形状の消毒液、という物をぼくの手に数滴垂らした。ぽたり、ぽたりと傷口に消毒液が落ち、傷口を伝って寝床の草を濡らす。
　普段から傷口を舐めて綺麗にしていたぼくは、傷口を舐める痛みと消毒液、という物の痛みは同じくらいの痛みだろうと思っていた。が、しかし、消毒液、というものが傷口を伝い染み始めると、普段感じたことの無い痛みがぼくを襲う。それは、刺すような、焼けるような、耐え難い痛みだった。
　染みるぞ、と前もって説明を受けていたにも関わらず、ドンと来いと身構えていたにも関わらず、その耐え難い痛みにぼくの身体はびくっと思いっきり反応して飛び跳ねてしまった。ぼくの手を握っていた人間も、ぼくの反応に釣られたのかびくっ、と握っていた手が揺れたのを肉球越しに感じる。
　念を押されていたにも関わらず反応してしまった身体に、ぼくは少し申し訳ない気持ちを抱く。人間はぼくが驚かないようにとわざわざ消毒液の説明までしてくれたというのに、ぼくはその痛みを、人間の好意を甘くみた。その結果予想以上の痛みに身体は吃驚してしまい、人間のことも驚かせてしまったのだ。申し訳なくて、ぼくは眉を下げて人間のことを見上げる。

　ぼくの顔を見ると人間はそんなことを口にした。この人間はぼくの気持ちが読めるのだろうか？下がった眉を指でくいくい、と押し、少し口元を緩めると、そのままぼくの頭に手を乗せくしゃくしゃ、と乱暴に撫でてきた。頭を撫でる、という行為はこの森林で暮らしているぼくにとって、あまり馴染みのない行為だった。いきなり頭に乗せられた手に少しばかり驚いてしまったが、特に害を与えるものではないと思い、ぼくはその行為を大人しく受け入れることにした。細い、何処か頼りない指だが、くしゃくしゃ、と乱暴に撫でるその指には不思議と暖かさを感じる。

　そしてそれは、今日何度目かのその行為を受け入れた今もまた、ぼくは感じていたのだ。









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