「………？」


　未だ日が昇る前の、僅かに空気だけが朝の前触れを宿しつつある、黎明――

　『契約』により“人形使い”に助力することとなったアルラウネ属のエンブリオ、エーメンガルト。
　植物由来ゆえに朝の訪れには敏感な彼女が、その日も意識の覚醒を迎えてゆっくりと地面から這い出る。（実体化している状態では、彼女は土に半ば潜り込む形で休息を摂るのだ）

　何の気もなく、契約主のいるであろう方向へ視線を向けたエーメンガルトは――そこで一瞬、ぞくりと肝を冷やした。


　誰に気取られるでもなく、既に起床していたものか、その携える大鞄の前にしゃがみ込んで向かい合い、じっとその蓋の表面を見つめる“人形使い”。
　しかし、その佇まいは決して穏便なものではなく、むしろ……憎悪や嫌悪の感情を周囲に悟らせるには十分な、険悪に過ぎる気配すら纏っていた。

　何となく、どころか全力で語りかけるのを躊躇う風情であったが――意識を向けてしまったものは仕方が無い。
　気付いてしまったものを知らぬ振りするというのも、後で何がどうなるか知れたものではない……そこまで酷い想像をしたわけではないが、“人形使い”に対して底知れぬ恐怖を抱いているエーメンガルトにとっては、不可避のトラウマとジレンマであった。
　結局、可能な限り自然を装って声をかけてみることにする。


　「……何をしているの。
　　鞄と睨めっこでもあるまいし」

　「――あら？　あらあら、もう起きていましたのねエーメ。
　　いいえいいえ、何でもありませんのよ。ちょっと困ったことがあっただけで、全然何でも。うふふ」


　いやお前どう見てもそれ何かあっただろう隠してるのモロバレやん、と言いたいのを全力でエーメは堪えた。好奇心はアルラウネをも殺す。
　代わりに、あくまで自然な会話になるように言い回しを必死に組み立てて、疑問を呈してみる。


　「何でもないのに、そんな調子で鞄と睨めっこする必要があるとも思えない。
　　……別に、聞かなくていいことならば聞かないけれど。気になっただけだから」

　「ううん。困りましたわねぇ……」


　大鞄に両手をかけて、ひょこりと立ち上がった“人形使い”。
　そのまま腰を預けるように寄りかかって、ヴェールの奥で苦笑じみた表情を浮かべたのち――何かを吹っ切ったように、エーメに向かって訊ねた。


　「ねえエーメ――
　
　　昨夜(ゆうべ)、この鞄が ぱかっ と開いてるところを、見たりはしなかったですかしら？」


　エーメは一旦『は？』という顔になった後、全力でブンブン首を横に振る。
　ただでさえ怖くて仕方ない相手の持ち物で、中にはどんな恐ろしい『人形』や『仕掛け』が入っているかわからない。そんなモノに興味を持とうとしたこともないし、できるだけ近付かないようにもしていた。
　それに、大鞄そのものの取り扱われ方にしても、たまに留め金を一つか二つ外して隙間を作り、そこから様々なモノを出し入れ（あるいは這い出てきたり潜り込んでいったり）しているのを見るだけで、普通の鞄をそうするように完全に開いて、中身を露わにしているところなど一度も見たことは無い。


　「そうですの――やっぱりそうですわよねぇ。
　　できたら、今後そういうことが、わたくしの見ていない間にあったりしないか、気をつけていてくれますかしら？」

　「……別に、そ、それくらいは構わないけれど……
　　でも、そもそもお前がその鞄を手放したり、鞄から長く離れたりしたのを見たことがない。
　　他に気をつけるべき時なんて、あるとは思えない」

　「ああ……そう、でしたわね。そうでしたわね」


　指摘されて気付いた、というわけでも無いのだろうが、“人形使い”は曖昧な仕草でのろのろと頷いた。
　そして溜息をひとつつくと――改めて、エーメに向かって告げるのだった。


　「今まではなかったかもしれませんけれど、今後はそうとは限りませんの。
　　ですから……そのようなことがあったら、気をつけて、わたくしにも教えて欲しいのですわ。
　　そして――」


　ふわり、と、ゆるやかな朝の風が吹く。
　いつの間にか朝日の兆しが周囲を少しずつ照らして――“人形使い”のヴェール、その鉄壁の漆黒をも照らし抜いた。

　“人形使い”と顔を合わせていたエーメの喉から、声にならないひきつれた息が洩れる。まるで断末魔のような。
　その目は、朝日が照らした闇色のヴェールの奥を、一瞬だけだが捉えたのだろうか……


　「――その際には、鞄には決して不用意に近付かないよう。
　　まだ死にたくはないでしょう？　エーメ」


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　「おはようございます、皆さん。今日もいい日和ですわね」

　「あら、おはようマリア」

　「ああ、お早う。いつも早いな」


　「……あの緑っぽいのは、お前のエンブリオじゃなかったか。
　　何であンな隅っこで、こっち遠巻きに見てガタガタ震えてるンだ？」


　無言で会釈をした軍服姿の少女の傍ら。
　車椅子姿の同行者がそう指摘したのに合わせて、一行の視線がそちらに移る。
　そこには確かに、目の光が消えたような虚ろな表情のアルラウネが、震えながら木の陰から一行を窺っているのだった。


　「――さあ、どうしたのですかしらねぇ。
　　何か、怖ぁい夢でも見てしまったのかもしれませんわね？　くふふ……」