人みなを　殺してみたき我が心　その心我に神を示せり

――中原中也

　　　　†
「ふぅ、スッキリしたスッキリした！」
　側にいるだけで身が竦むほどの魔力放出を行った魔神――ベルフィは、食後の運動でも済ませたかのようにあっけらかんと笑った。
「何とかなった、か……」
「とんでもなかったですね、色々と」
　巨大という言葉すら小さく聞こえるイカ。怪獣映画のような有り様をこの身で体験させられた僕と柊流那（同行者達を纏める、もう一人のリーダーらしい）は、疲労からその場にへたり込んだ。

「まぁそっちにも礼を言っておこう。小童にしては良い良い」
　ベルフィは黒い帽子を被り直すと、こちらに振り向いてそう言った。淀んだ紫の眼が、薄暗い水辺で淡い光を発していた。


　僕が思い出したのは、先日ネロスフィーネ・アバドと交わした会話だった。



（この人を怒らせてはいけない）
　それは、本能的な直感。生物的な本能。弱者は、強者に、勝てない――。

　僕は弱い。流那さんは間違いなく強者の部類だが、今は巨大イカとの戦闘で疲弊しているはず。
　ならば思考を巡らせろ。幸い向こうに敵意はないが、下手を打てば僕らもあのイカの二の舞いだ。このまま事を荒立てることなく、穏便にお帰り頂く必要が、間違いなくある。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　いや
　ベルフィはこちらを賞賛した。ここは謙遜して、彼女の自尊心を……――否、そうじゃない。
　彼女は恐らく、生粋の戦闘者。小細工や世辞で僕らを褒めた訳ではないはずだ。……であるなら、その賞賛は素直に受け取るべき。その上で、自然なやり方で敬意を見せるのだ。

　言葉選びも重要だ。やはりまずは、喜びの意思を伝える必要があるだろう。「ペルフィさんのような方にそう仰って頂けるなんて光栄です」……、少しわざとらしいだろうか？
　もう少し軽く、「わぁっ、光栄です☆」くらいに留めておくのが良いだろうか。しかし頭の軽い奴だと思われてしまう危険性も――。

「あの」
「ん……？　何でしょう？」
　僕の思考を遮ったのは、柊流那だった。
「大丈夫ですか？」
　大丈夫かどうかで言えば、間違いなく大丈夫ではない。何せ目の前にいる魔神は――魔神は――。
「……アレ？」
　僕の目の前には、誰も、いなかった。
「ベルフィさんなら、先程どこかへ行っちゃいましたよ？」

　　　　†
　行き先が真逆であるらしい流那さんと別れた僕は、皆と合流する為一人森へと歩を進めていた。
「ぞっとしないな……」
　思わず、口から漏れ出る言葉。
　それもそのはず、である。今回は僕が思考に耽っている内、あの魔神はどこかへ行ってくれたが。一歩間違えば、僕のあの態度こそが彼女を怒らせてしまっていたかもしれないのだ。
「そんなに、思考の方に集中してたかな？」
　それとも、ベルフィのプレッシャーに気圧され、眼を合わせることが出来なかったのだろうか。
　謎は深まる、が――。

「あんまり、ぼうっと思索に耽ってはいられないみたいだね」
　一呼吸置き、爪を装着する。

「おいぃぃ‥‥死ぬぜぇ？　てめぇ死ぬぜぇ‥‥？」
　僕の眼前には――人面林檎が立ち塞がっていた。
「かもしれないね。僕は弱いから」
　一歩、二歩と後退する。懐から小瓶を取り出すと、速やかに蓋を開け――爪にかける。
「なんだぁ？　毒か‥‥？」
　武器を整える僕を前にしても、平然とした様子で煙草を蒸している人面林檎。それは態度相応の迫力を持っており、その大きさも林檎のカテゴリで見ればまさしく埒外。恐らく、そのパワーも相当なものだろう。だけど――。

「――イカの方が、大きかったよ」
「！」
　地面を蹴って、飛び掛かる。
　どうやらこの人面林檎、これまでは無力な人間ばかりを相手取ってきたらしい。僕の奇襲にもなっていない攻撃を見て、畏怖するような表情を見せている。

「悪いけれど、一撃で」
　身体能力では、貧弱な人間である僕と人面林檎には、きっと大きな差がある。だけど勝負は強さだけじゃない。
　勢いに任せた突撃。当然叩き落とそうと、拳を振り下ろす人面林檎だったが――

「っ、ぐあっ……てめぇ、何しやがった！」
　大声で狼狽しながら、傷付けられた腕――もとい、毒によって使い物にならなくなった腕を抑えながら、こちらに向けて咆哮した。

「躱すんじゃなく、受けてくれるなら」
　もう一度。先程と同じように、突撃。――ガード不可。それこそが、誰よりも弱い僕が編み出した戦術だった。

「っ、があぁぁぁぁっ！」
　人面林檎の腕に、刃が奔る。血液が噴き出し、顔に返り血が付着してしまう。
「まだまだ、三発目――」
　そう思い、腕から爪を引き抜いて――しまうことが、出来ない。
「させる、かよ」
　人面林檎は、腕から血液を垂れ流している。傷口からは毒を送り込まれ、全身を蝕んでいるはずだ。なのに。
「なのに、なんで、この刃、抜けない……っ！？」
　どれだけ引いても、人面林檎は僕の爪を捕らえたまま離そうとはしない。
　どうやら、筋肉を掴むように引き締めているらしかった。
「はいアップルアップルぅ」
　両手の潰された人面林檎は、思い切り僕を蹴り飛ばす。
「――っ！」
　僕は床に吹き飛ぶようになり、崩れ落ちる。
　起き上がろうとするが、全身が軋むように痛い。
「……イカ戦での疲れ、抜けてないみたいだな」
「はん」
　今にも僕を踏み潰さんとする、人面林檎。
　ああ、弱い僕は、何も識ることなく死んでいくのか。
「終わりだぜ、ガキ」
　足が迫る。まるで、世界がスローモーションになったような感覚。
　僕は――――。

「――ええ、終わりです。貴方は。良き旅路を」
　気が付くと突然の乱入者によって、人面林檎は真っ二つに切り裂かれていた。

「！？」

　人面林檎を一刀の元に斬り捨てたのは、なんと吹けば飛んでしまいそうな幼い少女。
　髪は銀色で、淡い水色のドレスに身を包んだ姿。見ているだけで呑まれてしまいそうな、海のように青い瞳――。
「――君、は」

「“貴女は誰”と聞きますか？　――あの時みたいに」

　そう。僕の目の前に居たのは、この世界で初めて出会った、あの少女だったのだ。

　　　　†
　話は、数分前――ミラルカ・ハウダニットと、人面林檎（通称『アップルさん』）が戦闘をしていた時に遡る。
《エヴォル。聞こえますか？》
「聞こえていなかったこと、今までに一度でもあるかい？」
　白衣に身を包んだ少年――エヴォルが、通信機を介して少女を揶揄する。
　しかし少女の方はそれどころではない、といった風で、ただ《緊急事態です》とだけ告げた。

「緊急事態は歓迎――そうは言ったけれど、こうも続くと不安だね。何だい？」
《ミラルカ・ハウダニットの魔力残量が減っています》
「！」
　思わず、机をガタリと揺らすエヴォル。
《現在ミラルカは交戦中。最悪の場合、死亡時の“自然治癒”が起こらない危険性が有ります》

「対象に目撃されても構わない。ボクらの計画の妨げになる奴なら、排除してくれ」
《了解》
　ぷつん、と無線が切れる。どうやら、相当に切羽詰った状態らしい。
「……面白くなって来た」

　　　　†
　小鳥が鳴いていた。
「あの……ありがとう。あと、ごめん」
　僕は力の入らない足腰を無理矢理に立たせ、少女に頭を下げる。
「いえ、偶然出会った知人を助けるのは、人として当然のことですから」
「ううん、そうじゃなくて――あ、いや。そうじゃなくはないんだけど。それだけじゃなくて」
「？」
　要領を得ない、といった風に首を傾げる少女。
「ほら、受けずに居なくなっちゃったじゃない？　事情聴取」



　彼女も、自分の言葉を思い出したのだろう。「ふぅむ」と唸っていた。
「いえ、構いませんよ。あの事件に関しての聞き込みは、十分な情報が集まりましたから」
　情報が集まったからといって、第一発見者の証言を疎かにして問題無いのだろうか？
　そうは思ったが、聞き込みの前に一揆へ参加してしまった僕が聞けることではない、か。

「なるほど。それは何よりです」
「えぇ。貴方――ええと」
「ああ、ミラルカです」
「……、ん。ミラルカさんの、お手を煩わせることはありませんのでご安心をば」
「いやー、助かりました。この所、何かと慌ただしいので」
　僕一人なら勿論問題はない。ないが、今の僕は一人ではない。
　一日が事情聴取で潰れるとあっては、同行者達に置いて行かれてしまうだろう。

「さて、この辺りは危ないので、気を付けて下さいね。私も忙しい身ですので、今から兵舎まで行かねばならないのですが」
「あ、了解です。助けて頂いて、有難うございました！」
　もう一度、深く頭を下げる。
　我ながら情けのない姿ではあるが、弱者である僕にとっては似合いの格好だ。
「いえ。では、お気を付けて」

　――ふわり。
　風に乗るように、軽やかな所作の少女。
　動きの早い人はここに来て沢山見てきたけれど、彼女程の迅速さを持つ者はそうはいなかった。
「あ、そうだ」
　僕はあることを思い出し、声を上げる。
「ん……？　どうかなさいました？」　
　記憶のない僕が、初めて得た、僅かな記憶。少女との会話――。



「君の名前、聞いてなかったと思って」
　当時は、名前が分からないからはぐらかしてしまった。
　だけど今の僕はそうじゃない。僕はミラルカ・ハウダニットだ――と、そう信じている。

「くす。一度しか言いませんよ？」
　悪戯気に笑う少女。

　そして僕は――彼女の、名前を聞いた。

緊張した面持ちで、そろりと近付くモノがある。

にこにこと笑いながら、ハンチングを取り一礼して見せる。
胸にあてたハンチングを被りなおすかと思いきや、それを左手に持って指差した。
視線は、そちらの帽子に向いている。

男は、包帯で素肌の見えない右手を何ともなしに見つめた。

男は、自分の右腕を差し出してこう続けた。

ファイは、あなたが口にした言葉をゆっくりと呟いた。

あなたの言葉はファイに驚きを与えていた。
ゆっくり知ること。それは、ファイの考えとは真逆だったからだ。

あなたに向けて、ファイは笑顔を作った。