「…あ、そうでした。アールさんは、文字読めないんでしたね。」

しまった、というように小さく開いた口に、チセは手をあてた。
ランプの暖かな光のみが灯る薄暗い室内、その光に照らされている手元の本に視線を落とすと、チセは本を閉じた。
表紙には、祖父の友人の名が記されている。



*****



「アールさん、ペンは使った事ありますか？」

本を閉じると、チセは部屋の中を探し回り、紙とペンをアールの前に置いた。
アールが首をふると、チセは「こう持つんですよ。」とアールに手本を見せる。
見様見真似でアールはペンを持つが、中指の位置がおかしく、チセはアールの手をとって持ち方を直してやった。
アールが、こう？と改めて手元を見せると満足そうに頷き、チセは手元の紙にペンを走らせる。
すぐにそれは終わった。

「…、いいですかアールさん、これが文字です。
文字は地方によって色々な種類があるので、アールさんの地方ではどんな文字を使うかは、正確にはわからないけれど…。」

その紙には、メルンテーゼで最も一般的に使用されている言語の文字が書かれていた。
流れる様な美しい筆跡である。
不思議そうにその文字を眺めるアールにチセは苦笑すると、アールに肩を寄せるようにその紙を一緒に覗き込んだ。

「言葉は、この文字を組み合わせて表記するんです。
たとえば、アールはこれとこれとこれを順番に並べて。
チセは、これと、これ。」

チセは、紙にそれぞれの名前を並べて書いてみせる。
幼子の様に小さなことにいちいち感心してみせるアールの様子が微笑ましく、口許を緩めた。
紙に練習するように勧めると、アールは気の入った様子で文字を書きはじめたが、その文字はガタガタで大小もまばら、筆圧も強いせいか時折紙をやぶりそうになっており、チセはリンテントポーゼで幼馴染達が家庭教師に文字を習っていた時の事を思い出した。
その後、覚えたての字で書かれた手紙をもらった。
思えば、あの手紙はチセが最初に貰った手紙だっただろう。


チセは、そっと手を伸ばし、ペンを持つアールの手に重ねた。

「こうやって書くんですよ。」

そのまま、ゆっくりと一文字一文字、文字を綴ってゆく。
大きな手だ、とチセは思った。
ごつごつとしていて、チセの手よりも少しだけ冷たかった。
二人の重なる手に、もう一つ、手が浮かんで見えた。
その手はアールのものよりももっと大きく、浅黒い色をしている。
太い指、けれどその指はとても器用に、繊細に動き、美しく精巧なランプを作りあげてゆく。

あれは、チセが6つになるかならないかの時だっただろう。
祖父に連れられ、祖父の友人であるグランを訪ねた後、リンテントポーゼに帰る途中に迷い森に迷い込んだ。
チセはとても恐ろしく、祖父にしがみつき震えながら森の中を歩いたものだ。
祖父の持つランタンの明かりはとても頼りなげで、チセをさらに心細くさせた。
ガリバルディアの庵の灯りが見えたとき、とてもほっとしたことを覚えている。
そして、出迎えてくれたガリバルディアが、その大きな身体と精悍な顔つき故に巨人のように見え、小さく悲鳴をあげて祖父の後ろに隠れてしまった事も。



「―――…　、ごめんなさい。」

気付くと、文字を書くは止まっていて、アールが少し心配そうにチセを覗き込んでいた。
しかし、チセは思い耽るように、しばらく虚ろに手を重ねたまま動かなかった。








*****

続きます、きっと。

――親愛なるチセ

　君が僕の腕の中で涙を一筋流したあの日から数日、僕の行軍は順調に進んでいる。
　迷い森の主ですら身を投じなければいけないこの戦乱、周りを見るとちらほらと見知った顔があるよ。
　君は知っているだろうか？近隣フリント領のヘクター卿もこの戦に参加している。もっとも、僕らとは別行動なのだけど。
　運命の悪戯―あるいは、偶然の余波――によって、もしかしたら君もこの戦に身を投じる事があるかもしれない。そのくらい、大きな戦になりつつある。
　もしも万一そうなった時、僕は君を守りに行きたい。けれど僕の状況はそれを許さない。悲しい事にね。

　チセ、もしもそうなった時は、一人では必ず行動しない事を約束して欲しい。
　誰か信用の出来る人と行動するんだ。一人ではとても危険だから、必ず二人以上で。

　君がこの戦いに身を投じずに済む事を祈っている。

愛する君に幸いを――L.Z.

チセはぽかんとしている。

少女はソワソワしている。