紙の上に糸を解くようにさらさらと綴られていく文字を、アールは生き物でも見るかのようにじっと見つめ、追いかけていた。
アールの故郷に文字というものはない。絵や図なら書く事はあったが。だから目の前に流れる線を見ても、アールには何が何だかさっぱりわからなかった。
チセが口にする「アール」という言葉に合わせ、それを示す文字が綴られていく。続けて隣にチセの名前が書かれると、アールは胸の奥がなんとなくくすぐったく感じた。一文字一文字、教えてもらうたびに額を擦りつけんばかりに机に顔を近づけ、ゆっくりと字をなぞっていく。
「アール……チセ」
そこに現れた二つの名前。特別な呪文のようで、アールは何度も口にしては、また何度か書き続けた。時々ペン先が引っかかったり、インクが滲んだりしたが、それでもアールは紙いっぱいに自分とチセの名前を書いた。

チセもいつも、こんな風にアールの知らない誰かを思いながら紙いっぱいに文字を書いていた。
内容はもちろん、相手が家族なのか兄弟なのか友人なのかはアールにはわからなかったが、それでも大事な人へ向けたものなのだということは、チセの表情を見れば明らかだった。
時々自分に当てられた文字を読んでいることもあった。
何かを思い出したように微笑んだり、そうかと思えば夜の薄暗い中目を涙で光らせていたり、難しそうな顔をしていたり。文字を書いたり読んだりしている表情の数は、アールとのやり取りで見せるものよりずっと多かった。
だから自分も文字が書けるようになれば、もっとチセと仲良くなれるのではないか。アールはそう感じていた。
だから文字を習うことは、全く苦ではなかった。

「……チセ？」
そえられた手とチセの顔を交互に見ながら、アールはおずおずと声をかけた。
名を呼ばれ、ぼんやりとしていたチセの目は一瞬色を取り戻したが、すぐに遠くを見てしまった。ああ、まただ。とアールは肩を落とす。

背中でチセが寝ているとき、いつも彼女は夢の中でアールの知らない名を心細そうに呼んでいた。寝息に混じって嗚咽が聞こえ、静かに涙を流している時もあった。
その度に、アールはチセの額にそっと手を当てて、まじないの言葉をつぶやいた。子供の頃、眠れない時に母親がしてくれたのと同じことを。効果があったかはわからないが。
チセがいつも自分とは違う世界にいるのは、なんとなく気づいていた。その世界に自分がいないということも。

アールは自分の上に重ねられた手を見下ろした。小さくて、頼りない。石を渡した時のことを、アールは思い出していた。
自分はチセに何度も助けられ、たくさんのことを教えてもらっているのに、チセに何も返せない歯痒さと、自分への苛立ちでアールは思わずペンを強く握り締めた。

そういえばチセは、この場所をよく知っているようだった。まるで家にでも帰ってきたかのように、棚の本やランプを愛おしそうに眺めていたのを、アールは見ていた。
そっと立ち上がり、さきほどチセが読んでいた本を手にとってぱらぱらとめくってみる。文字が多くてよくわからないが、古くて重い本だった。

「なあ、これなんだ？」
チセの前に本を差し出して、アールは静かに訪ねた。本のことも、チセのこともなにもわからない。だから少しでも知ろうと、アールはまた一歩、歩み寄った。

ぐるぐると周囲を回りながら羽を観察するアールを見て、
大きく一つはばたくように羽根をうつ。
そのサイズにふさわしい強さの風がぶわっと広がる。

テンションの上がったアールの様子をまじまじと見ながら。
そう言うケチェの口調はいいつも通りの平静さだが、気は悪くないのだろう。
近づかれたり、鱗に覆われた足をつつかれても不快がるそぶりはなく。

会話の中に出た人名に、いつかの練習試合でアールといた人科の娘を思い出す。

自分の同族は全員羽はある、と、頷きながら

言い淀む姿を見ながら、くつくつと笑う。
少女のことに関してだけははっきりとした口調になったのを
やはり、にんまりとした顔で見ていたが、
「ドーモアリガトウゴザイマシタ！」と手を払いのけられて、軽く口笛を吹いた。

ゲラゲラと笑いながら、ジャックは少年の首がもげるのではないかと思うような力で
わしゃわしゃと頭を撫で回した。
少年の頭が見事にぐしゃぐしゃになったのを見届けると、満足そうに頷き
またゲラゲラと笑いながら、少年の元から離れていった。

チセはぽかんとしている。

少女はソワソワしている。