［基本］OK.　［戦闘］OK.　

　ある日を境に、わーくんの部屋の扉の鍵が開かれることは無くなった。
　長い留守だった。
　周囲に尋ねると、実家に帰ったとか、病気で入院してるとか、旅行中だとか、皆が口々に違うことを言う。
　連絡をしても何も返事は来ない。
　わーくんは、いつかこうすることをずっと前から決めていたように思う。
　いつかふらっと居なくなってしまって、それきり戻ってこなくなるとどこかで感じでいた。

　わたしは、わーくんが好きだ。幸せになってほしいと思う。
　でも、一緒になりたいとは思わない。
　それはなんというか──彼が可哀想だと思うから。

　前にわーくんの同級生に恋人かとからかわれたことがある。わーくんは「もっと相手を見て選ぶ」と否定した。
　だからというわけではないけれど、それがきっかけで確かにこの人にはもっと相応しい人がいるはずだなあとその時わたしは納得していた。
　だって、生まれ持った性質というものがある。わたしがわたしとして生きて行くには困らないけれど、誰かと一緒にわたしが生きていこうとしたとき、わたしのことでその人に苦労を掛け続けるのはわかりきっているし、相手が構わないとしても、わたしはきっと負い目を持ち続けることになる。一緒にいるのにそれを心から喜べないなんて、相手がかわいそうだ。
　結婚が最善の選択とは思わないけれど、わーくんにはきっといつか素敵な女の人が現れるんじゃないかな。それで結婚して、子宝に恵まれて、子どもといっぱい遊ぶ良いパパさんになるんじゃないかな。
　そんな想像を膨らませて、そういう結果にわたしは満足して、奥さんに胸を張って自慢のかわいい幼馴染を送り出すつもりでいた。
　けれどわーくんはいつからかなにかを隠して、人との積極的な交流を避けるようになった。恋人は何度か居たみたいだった。けれど長く続かなくて、どれも薄らとした関係に思えた。
　色んなところからある一定の距離を取って、いつでも一人になれるようにしていた。
　わたしはそれがたまらなく心配で、怖かった。彼はどこかでひっそり消えてしまいそうだった。
　わたしは少々強引に、わーくんに接点を作って彼の家に押しかけるようにした。彼がいない間の留守番も申し出た。本気で嫌だったら親に言ったり警察とか頼るだろうし。
　でもわーくんは、わたしが行きたいところがあるといえば付き合ってくれるし、向こうから誘ってくれることもあった。とてもうれしかった。素っ気ないけどかわいい奴なのだ。
　そうやって、わたしはわーくんの日々を繋いでいた。　
　わたしにできるのは、細く頼りない糸で彼を繋ぎ止めるだけ。
　その糸も、とうとう切れてしまったみたいだ。
　どこでこんな逃げ方を覚えたのか、行方がまったく掴めない。ご両親も心配していた。もう知っている顔に会わない気でいることだけがひしひしと伝わってきた。

　あてもなく車椅子でさまよった。手がかりは一向に見つからない。前以上に遠出して行方を尋ねたりもした。けれどやっぱり見つからない。
　この世界から、消えてしまったみたいだ。
　そう思った瞬間、胸にぽかりと穴が空いて、街路の雑踏が遠く聞こえた。
　こんなに人が沢山いるのに、わーくんが見つからない。

　深呼吸をする。瞼を閉じる。両手で顔を覆った。
　真っ暗な世界。わたしだけの世界。わーくんのためにある世界。この世界の星明かりは、ひとつひとつがわーくんがくれたものだ。

　集中する。
　感覚を研ぎ澄ませる。
　勘が冴え渡る。
　力が漲る。

　わたしは車椅子から立ち上がり、杖を捨てて走り出した。
　体の重さは吹き飛んだ。呼吸器系が躍動する。わたしの体は、走るための体に変わる。

　わーくんは知らないかもしれないけれど、わたし、卵焼きじゃなくてもわーくんの好きなものを作る時は体の調子が良いんだよ。
　卵焼きだって、あなたのためなら上手に作れる気がするの。どんな幸運だって呼んでみせる。あなた好みの完璧な出来にしてみせる。
　わーくんのためだったら、わたしはどんな色にも染まれる気がするの。
　あなたのためなら、どこまでも走れる気がするの。
　わたし、好きなひとのためならちょっとだけ頑張れる気がするの。

　だから一人になんてさせない。
　わたしはどこに足が向かうのかもわからないまま、夢中で駆けた。殆ど本能で行動を選ぶような感覚で、見たことない道を幾つも曲がって、坂道を自転車みたいに飛ばしながら下って、無人駅の階段を二弾飛ばしで我武者羅に登り詰めた。
　電車が一本、発車ベルを鳴らしたところだった。

「わーくん！！」

　姿も見えていないのにわたしは声を上げた。確信していた。彼はそこにいる！
　力が抜けた膝をつく。発進した電車が遠ざかっていく。もう一度叫ぼうとして、肺が過呼吸の波に限界を呈して噎せ返った。視界がチカチカする。何も見えない。
　向こう側のホームにわーくんが、愕然とした顔でこちらを見ていた。
　ホームに静けさが戻る。
　
「わーくん」
「悪い、莉稲。さよならだ」

　もう一度呼ぶと、食い気味に別れを告げられた。わたしが何か言おうとする前に決着を付けようとするように。

「俺はこれまで、人に言えないようなことをずっとしてきた。犯罪ってヤツだ」

　わーくんはじっとこちらを見ている。目を逸らさない。強固な意志みたいなものが、そこには感じ取れた。

「お前にも家族にも隠して、何年も続けてきた。ずっと前から、まっとうな人間じゃなかった。もう普通に暮らすことはできない。いや、本当は最初から──手を出した時から、日の下で生きるべきじゃなかった」

　──嘘じゃない。根拠はないけれど、今まで何かを隠しているように見えていたわーくんとは、確実に立ち姿も話し口も表情も違っていた。堂々として、すべてを曝け出しているようで、痛々しさすら感じた。
　黙って聞いていたけれど、わたしだって言いたいことはある。たくさんある。わたしは口を開いた。

「だからって、急に居なくならないでよ」
「悪かった。すべての縁を断つつもりで、家を出た」

　わーくんは線路越しに頭を下げた。
　頭を下げられて謝られたのなんて、長い付き合いで初めてかもしれない。

「今も顔を見せるつもりは無かった。でも、今はこれまで言いたくても言えなかったことを言える。今、ようやく言えるようになったんだ。今が、俺に与えられたチャンスなんだと思う」

　言っていることが、よくわからない。
　わたしはホームに座り込んだまま息を飲んだ。

「自首してくる！」

　高らかに宣言したわーくんの声が、ホームに響き渡った。
　季節の変わりを告げるような風が一陣、髪の合間をすり抜ける。
　言い切ったわーくんは安堵したように眉尻を下げて、口角を上げていた。

「じゃあな、莉稲」

　話はこれで終わりだと、合図するように彼が片腕をひらりと挙げる。
　きっと返しを求めているものではなくて、彼自身の区切り。
　これでさよならだと、告げるための。自他ともに認めさせるための。
　……わーくんは、それでわたしが笑って「ばいばい」なんて言うと思っているの？

　ゆらりと、ホームの柱を支柱にして立ち上がる。
　神様、おねがい、もう一度。
　わたしに、力を。

「許さないよ」

　立ち上がった視線から、彼をじっと見据えて言い放つ。絶対に逃がさないつもりで、眼の中にわーくんを捉える。予想してたとでも言うように、困った色を滲ませたその格好悪い顎髭面は、またどこかへふらりと消えてしまいそうで。

「わたしは許さない。──だから、待ってる。ちゃんと帰ってきて、話をして」



　わたしは、帰る場所を示した。
　真っ暗な世界にわーくんが星明かりをくれたように、わたしも道標を与えたい。

「ずっと待ってるから」

　線路を打ち鳴らして進む電車の音が近づいてくる。大きな鉄と音の塊は徐々に迫り、わたしとわーくんの間に割って入る。間際。

「──行ってきます」
「行ってらっしゃい」

　わたし達は、世界でふたりだけが知る約束をした。

---

　なんでこうなったんだっけな。
　神様なんてもんは信じちゃいないけど、天罰ってやつ？
　それなら天は随分と大雑把な采配をなさったと見える。
　自分は準暴力団員で詐欺師で偽善者だから罰するべき悪と定義されるかもとして、俺達の街《イバラシティ》は善良な市民も悪人も、全部まるごと分け隔てなく出口の無い否定の世界《アンジニティ》と入れ替わってしまったとされる。
　アンジニティから侵略されている、なんて聞いた時は馬鹿げた話と一蹴して寧ろ不安がるカモを揺するネタに使わせてもらったものだが、本当だったとは思いもしなかった。
　代わりにこの世界に収容されてた囚人共が外に解き放たれたとかで……まあ、そんなのはどうだっていい。俺には関係ないし。
　各所で立ち上げたビジネスも軌道に乗っていい感じに稼げてたところに突然の終了。これが人気ゲームのサービス終了なら大炎上の暴動ものだね。お金もパアだ。
　ここじゃ札束もただの紙切れ──ああ、なんか前にもこんなこと考えた気がするな。
　ちらほらと「侵略者と戦っていた記憶」を持つ人間の話を耳にする。悠長に暮らしてた街での記憶ではなくて、イバラシティとアンジニティの《ハザマ》における36時間の話。
　俺はそんなのあった？ってレベルで覚えてないんだけど、こうしてたまーに覚えのある感覚がある。だからってデジャヴとどう違うんだか。大して役に立ちはしない。
　まあ、そんなわけで一文無しで荒みきった世界に放り出された俺としては、とにかく日々を生きるのに精一杯なのでした。
　誰かを助ける余裕なんか無い。助けてほしいのはこっちだ。なんで俺がこんな目に──というのを考えると因果応報とか言う言葉が過ぎったりするんだよね。信じてないけど。
　けどまあ流石にヤバいかもしれない。
　よそ見した拍子に、勾配の急な斜面から足を踏み外して転げ落ちた。
　命は助かったけどあちこちぶつけて足の骨がやられたっぽい。歩けない。これは本格的に詰んでる。いよいよ詰んでる。
　もうどうしようもないと諦めるしかなくなって、もし違う人生を送ってたら違う最期だったのかなんて夢想した。最期に考えることなんて存外くだらない。俺が辿った道はこれだけで、行き着く最期もこれだけだ。
　開けるのに疲れた瞼を閉じる。痛みでろくに休まらない。せめて眠るように死ねたらいいと目を閉じる。
　そんなうまい話はなくて、即死じゃない故にきっとこれからじわじわと傷口の発熱とか空腹とか虚脱感とかそうした肉体的な苦しみに苛まれて、退屈とか孤独とか後悔とか思考を乱すものに精神の髄が蝕まれるのだろう。
　嫌だなあ。死にたくないなあ。誰だって苦しいのは好きじゃない。俺だってそう。だから他人を蹴落としてでも楽を得てきた。利用できるものは何だって使った。未成年だろうが老人だろうが一切の温情なく。
　で、思うのは。金稼ぎするだけのつまらない人生だったなって、それだけ。
　もういいや。眠ってしまおう。息苦しくてとても寝れやしないがどうにか眠れる域まで意識を遠ざけよう──
　逃避し、意識を手放そうとしたその時だった。

「大丈夫ですか！」

　頭上から男の声が降ってきた。
　薄らと瞼を開ける。眼鏡が無くてよく見えないが人影が段差の上から覗いている。幻覚ではなさそうだ。
　マジかよ、ガチで死ぬ気でいたのにという疲弊からの落胆が半分。奇跡か？もしかして助かるのか？という期待が気持ちが半分。
　足音が近づき、男が接近する。

「返事できますか……って、あれ」
「……卯島ちゃん」

　声と顔が一致する。組織の使い勝手のいい下っ端だった青年、卯島渉。
　
「どの面下げて来たんだよ、裏切り者」
「どの面が下がってても、怪我人が居たら助けますよ。それが野上さんであっても」

　卯島渉は、脱いだ上着と添え木で簡易的な固定を施しながら簡単に言う。
　この男はどういう訳か異能で制御した箝口令を振り切って、サツにタレコミしやがった。俺達を売った裏切り者。特に接点のあった俺はサツに追われる組織じゃ後ろ指さされる毎日。そろそろ顔を変えようかと思ってたところだ。

「ッ痛えな、くそ。……助けてどうすんの？　俺は恩返しなんかしないよ」
「これは俺なりの社会貢献っていうか。思いがけず執行猶予みたいな状況になっちまいましたンで」
「なにが執行猶予だよ、お前のせいでこっちは後処理に追われまくってんの」
「そりゃあいい。俺はあわよくばあんた達も取り締まれたらと望んでましたンで」

　冗談めかして笑っているが卯島は多分本気だろう。こいつは人が善かった。だから利用しやすかったけど、自分の抱える罪についても深刻そうに悩んだ様子を見せていた。
　……それがまさか、こんな形でひっくり返されるとは。

「最低」
「野上さんほどじゃァないです」

　いつも後ろめたそうに首を縦に振るだけのイエスマンだったくせに、卯島は生意気に軽口を叩く。変わったな、と思う。
　俺の前じゃ萎縮して笑うことなんか少しもしなかったくせに。

「最低な俺は、助けられても卯島ちゃんのこと利用するだけして捨てるよ」
「良いですよ。俺も利用させてもらいます。今アンジニティは復興で人出はいくらあっても足りないくらいだし、野上さんのハザマで覚醒した力は人体すら修復していた。此処でも同じ力が引き出せりゃァ大助かりです」
「捨てるつってんじゃん。絶対逃げるからな。第一俺ハザマとか覚えてねーし……」

　こいつ、怪我人を人員不足の足しにする気か？　食い扶持圧迫するしかできないと思うけど？
　こいつの言う通り俺の異能で人体の修復ができるというなら今すぐにでも自分を治したいところだが、俺の《ロマンティック・イレイザー》は人体には使えないという制限がある。そう簡単に覚醒とかしない。

「俺は最終的にあんた達に復興の協力させるのも償いだと思ってますンで」
「……あのさあ。俺が素直に改心すると思う？」
「そう聞いてくる辺り、警告してくれる程度には気にかけてくれンですね」
「気色悪いこと言うんじゃねー。あまりにも馬鹿馬鹿しいから言ってんの……勘違いすんな。性根の腐った人間なんかそう変わらないもんだよ」
「いいですよ、協力するフリだけでも。野上さんが裏切って逃げるくらいになってればここもそれだけ潤ってるでしょうし、俺が俺たちの居場所を守りますンで」

　性根の腐った人間はそう変わらない。多少痛い目を見たくらいじゃ、都合のいい風向きになった時また同じことを繰り返す。
　そんなの裏の人間ならいやというほど知っている。
　けど、こいつは。
　こいつは、見ない間に随分と言うようになった。自信なさげにうじうじと飼われてただけのウサギ野郎が、確証も無いのに自分が守ると胸を張って言い切っている。
　それに、と卯島は続ける。

「俺はあのハザマで助けてもらったこと、覚えてるンですよ。それに裏社会でなんだかんだあんたに世話ンなったのは事実だ。だから今回は、俺の期待とか社会貢献とか無しにその恩返し、てことで素直に受け取ってもらえると」
「こっちは知らねーっつの……」

　気に食わねー。都合のいい傀儡でしかなかった分際で、俺らを出し抜いて、優位に立った途端愚直に感謝とか期待とかぶつけてくる。
　どこまで俺をコケにすれば気が済むんだ？
　屈辱だし不快だし腹立たしい。
　が、拒めば拒むほど痛い目を見せてやりたいと執着する自分もいた。

「世話になってやるよ。責任持ってよね」

　精々偓促働いて、予定が狂って挫折すればいい。そしてその時が来たら、そら見た事かと笑ってやろう。
　その時まで、こいつを利用させてもらいながらクソ真面目な働きぶりを見ててやることにした。

「任されました。じゃ、水流園刑務官。あと移送お願いします」
「つるぞの？」

　もう一人、青年が卯島渉の背後から現れる。えっ誰？
　ぼやけた目を凝らす。
　見覚えがある気がしないでもない。けどやっぱ知らない。

「はい、ちょっと目が回るのでご容赦くださいね」
「えっ」

　嫌な予感がする。水流園が手を翳す。
　忽ち俺の視界は波打つように揺らぎ出して───

「いきますよ、《ウォータースライダー》」
「あああああああああああああ」

　俺の新しい卯島渉監視生活は、汚い悲鳴で始まりを告げた。

ENo.545 東堂玄樹 とのやりとり


ENo.880 つむじ とのやりとり


ENo.988 麻生田 とのやりとり