
朝イチで連絡が飛び、結果おのおのが学生室で好き勝手に朝ごはんを食べている。
電子レンジと冷蔵庫とトースターがあるのをいいことに。朝から好き放題するもの、コンビニで買ってきた菓子パンや弁当を食べるもの。誰かがトースターの占領を終えるのとほぼ同時に次の人間が滑り込み、大日向研究室は騒がしくなっていた。
「朝イチで集合掛けるの外道の所業じゃない?」
「まだマシですよ。というかこれからですよ」
「そういや何時解散か聞いてない。終わり」
何故唐突に集合の号令があったのか、ぶっちゃけた話ほとんどの学生が分かっていた。理解していないのは紀野くらいだと思っている。だから荷物がやたら多いやつもいるし、そもそも泊まり込むことが多い二ノ平に至っては仮眠室用のセットを複数人分用意していた。おせっかいだ。
「いよいよ、というところです。何か足りないものがあれば買ってきますが……」
「出たよおせっかいパイセン」
「ティッシュが多分途中で尽きると思います……」
「念のためコーヒー足してくれコーヒー」
色めき立つ学生室のドアが勢いよく開かれた。
ついさっきまで寝ていたと思しき髪の毛のハネと、くくっていない鮮やかな髪を隠しもせず、ドアを開けてから眼鏡を掛け、大日向は言った。
「ついに来たぞ!我々の大きな目的が達成されるときが!!」
「先生寝たほうがいいですよ」
「目の下がヤバい」
「全体的にヤバいツラしてる」
研究者とは時にそういう生き物である、というのを体現したような姿で現れたのを、問答無用でクレールが担いだ。それでも大日向の口は止まらない。
「いいかお前ら!我々が出方を伺う時間は終わるのだ!そのために天才たるボクがだな」
「寝せましょう……」
「寝せるか……」
がなりたてる大声。それが遠ざかっていくのを聞きながら、西村は徐に研究室内のクラウドストレージを立ち上げた。
そこには確かに、大日向がほぼ徹夜で――この際何徹かは考えないことにする――書き上げたのであろう、文書ファイルがある。人数分の印刷をするかどうか数秒悩み、結局一部だけ印刷した。
「朝飯全員食べたら雑にミーティング始めましょうか。どうせ書いてありますよね、まだ中身を見ていないんですが」
「ああ、それなら俺が確認しました。大丈夫です」
印刷機が稼働し、紙を一枚ずつ吐き出していく。不思議なことにそれはまっさらな白紙で、印刷機の不調を疑ってもおかしくはない。
西村が一枚手に取ると、そこからじわりと文字が染み出すように現れ、そして可読性を持った。
「では食べた人からこちらの方に」
食べた人から、と言っているのにも関わらず、食べかけの菓子パンを持ってくるやつがいるのを知っていた。文字の滲み出たコピー用紙をテーブルの上に置くと、端の方からその文字は消えていこうとした。ゆっくりと、しかし確実に可読性を失おうとしている――機密事項を守るため、特殊なインクを使えと指示されることはあったが、それを目の当たりにするのは初めてだった。それほどまでのことに出会そうとしている。
のろのろと椅子を転がしてくる人、立ちながらパンを食べている人を見、西村はコピー用紙を手に取り直した。可読性が即座に取り戻されていく。
「……食べてからでいいって言いましたよね」
「クレールパイセンもたぶんこうするんでー」
「忘れてました」
手元の書類に手を戻した。可読性が取り戻されたと言っても、それはさらに暗号化がされていて、一息で読むことができない。――一人を除いて。
【識り尽くす氷】とは、まさにこのために用意されていると言っても過言ではない能力のひとつだった。その能力の前では暗号化はほぼ意味を成さない。特に身内が作ったものであればなおさらだ。
「では声は控えめにして読み上げますので。聞いといてください」
本来ならば高らかに読み上げていただろう人間のマネはしない。そもそもが向いていないし、方向性が違いすぎる。
「――仮称『電気石』を通じた怪異『鈴のなる夢』への直接的なコンタクトの試みについて……」
俄には信じ難いが、それをすぐに無碍にしてやることもできはしない。例えるのなら、どこにも見えていなかったはずの希望が、突然そちらの方から全力でこちらに近寄ってきたのだ。
ただ静かに話を聞いている。
「大日向先生は、この世界に怪異を追ってやってきた。それは特に先生――『鈴のなる夢』とは関係ない相手。ただ」
「ただ?」
「大日向先生たちが調べたことが正しければ、そいつがユーエの可能性を巻き込んでいて」
――可能性。
懐かしい言葉のように聞こえた。ほんの僅かの可能性に全てを賭けて、全てを手繰り寄せようとしていたころ。少しでも穴があるのであれば、そこを広げようとしていたころ。いや、今でもまだ信じている。この閉ざされた世界から、僅かに覗く光を求めて、信じて、彷徨い続けている。戦い続けている。
「……その可能性が、あの本を持たなかったユーエということ……で、合っている?」
「いや。本は通っているはず……あれが胸についていた。なんだっけ」
「……貝殻」
それは、確かに抜き取ったもののはずだった。
自分にとってはもう、ずっと前の話。時間という概念を当てはめるのには難しく、ただずっと前のこととしか言葉が見つからない頃のこと。
まだ炎を愛することもなく、己はただの父親として全てを終えているはずであった。そう、ただ、亡霊として。偶然に導かれたものとして、何もかもを終えているはずだったのだ。
歯車が狂うのは、本当に一瞬のことだ。それはよく知っていた。そして、そのときはまだ、自分の娘の形質を知らなかった。
「そう。異なる教えより賜りしもの。あれがなければ、……先生が先生として、あることはありえなかったもの」
「そうだ。あれは俺の全てと言っても過言ではない。逆に言うと欠片が飛び散っているとも取れるけれど……そんなことがあり得るのか?」
咲良乃スズヒコという人は、一度全てを見限り死んだ人間だ。
己に付随する全てを切り捨て、道半ばで吊橋から落ちることを、自ら選んだ。例えば引き返すとか、例えば逃げ出すだとか、そういうことを考えてもよかったはずなのに、自分は躊躇いなくその身を焼いた。その時誰かの命を奪っているだろうし、本の世界に呼ばれ、改めて肉体を得てから――仕方なかったとはいえ。もはや本能のように。人ではなく獣のように。殺したものの数は、数え切れない。記録にはあるから、足して割り出すことはできようが、失わせたもののことはもはやどうでもよかった。
その結果がこの、否定という解答なのだろうから。
「そう。先生、大日向先生は……先生と話すことを望んでいる。対話だ。意見交換?」
「……現地のものからしか得られないだろう知識がある。そう解釈するけれど」
「それは、もちろんそうだと思う……よ?大日向先生は一度ここに来たことがあるらしいけど、それでも何も分からんって言ってたし」
考えている。
いくらパライバトルマリンが特殊な生き物だとしても、それを他の世界に送り込む程度の技術があるか、後ろ盾があるはずだ。
情報は交渉材料だ。情報を対価にし、ここを抜け出すことを選択できるのなら。――もし、可能であれば……人の数だけ。
「……幸いなことに一旦拠点に戻る。その前に一度挨拶でも入れるべきだろうか」
「つまり乗ってくれるってこと?」
「勘違いしないで。何か失礼があったら手のひらを返すよ」
どのように対話するのだろう、と思っているうち、パライバトルマリンの触角が虚空を指した。
滲み出るように何かが広がっていく。そこに幕が形成され――画像が映る。
「ああー!!映った!!先輩方ーッ!!映りましたあ!!」
とびきり元気な大声で仮眠から叩き起こされ、クレールは吹き飛んだ専門書を拾い上げた。集合が掛かってから丸一日、無事に何の音沙汰もなく、一度おのおのの家に帰るものは帰り、風呂などの支度をしていて、今は学生室には二人しかいなかった。紀野がゲームしてるので起きてます!!と元気に宣言したのをいいことに静かに仮眠を取っていた。大学院生になってから仮眠は完全にお友達になったが、いくら何でも叩き起こし方が元気すぎる。
「うるさいぞ」
「映ったら起こせっつったのパイセンじゃないですか!!」
ゲーム機をスリープにし、壁に垂らされたスクリーンを見やる。部屋の明るさを微調整するために、クレールがほんの少し視線を逸らしたときだった。
『……君が大日向……というわけでは、なさそうだね』
「はい!!あたしは大日向研に所属してるB1の紀野です!!」
振り向く。
画像は不鮮明だが、そこに確かに何かがいる気配。スクリーンのさらに向こう側で、何かが喋っている。
『……。そう……大日向さんは?』
「えーと、ここしばらく徹夜してたと思うのでえ、多分まだ寝てます!!」
「紀野」
「なんすかクレールパイセン!!あっ挨拶したほうがいい!?そうだな!?」
「いや……」
見られている。
鋭い視線がこちらに向いている。紀野はそれに気づいているのかいないのか、クレールをスクリーンの前まで引っ張ってきて、当然のことのように言った。
「改めて自己紹介しますね!!自分は紀野いずもです!!こっちはクレールパイセン……クレールパイセンドクターのなんぼでしたっけ」
「D3だよ。……クレール・シルヴェストだ」
見られている。俺の何が気に入らないのだ、と言いたいくらいに、見られている。
何一つ気にしていない様子の紀野が、他のみんな呼びますか!?とか、先生起こしますか!?とか言ってくるが、茶々を挟まれているようにすら思えた。
『……失礼。人違いだったようだ』
「そうですか」
「パイセン!!みんなに連絡しますからね!!しますよ!!」
「分かった分かったしろしろ」
スクリーンの向こうのぼんやりとした人影が、ようやく男であることを知る。単なる男で済ませるにはいささかパーツが多く、そして確かに知識の気配を感じた。
こちらを見定めようとしている。初動の相手が紀野だったのは、ある意味で正解だったのかもしれない。彼女は愚かさを底抜けの明るさで塗り潰している。
「……このような場が設けられたということは、あなたは“同意した”ということでいいのでしょうか」
『俺が同意したのは大日向との対話までだ。場合によっては一切協力しないこともあり得る』
「それはどうも。紀野が言った通りですから、少しお待ちいただいても」
『待つ分には構わない。君たちのほうがよほど大変そうに見える』
画像が揺らめく。
『悪いが移動する。次にまた』
一瞬のことだった。人影が映っていたそれはすうと消え去り、あとにはただ白いだけのスクリーンが残されている。
狭間の時間とこちらの時間はズレている。それは基礎知識としてあったが、どのくらいズレが発生しているかまでは確認していないし、確認しようがなかった。
紀野が一斉に連絡を取った面々が顔を出し始めた頃には、とっくにスクリーンは沈黙している。
「……映ったんじゃないんですか?」
「映ったから呼んだんですよ!!ねっクレールパイセン!!」
「録画くらいあるだろう……多分。二ノ平に頼んで抜いてもらえ」
次の機会を伺いながら、また待つことになるのだろう。
その頃には徹夜を続けていた愚か者もどうにかなっているはずだ。