
吉野暁海は帽子を目深に被り、早朝の大学構内を歩いている。
極力物音を立てず、ゆっくりと階段を登り、棟の間の渡り廊下を抜け、――第四学群。怪異学専攻大日向研究室、その教授の居室の前へ。
「……」
「……入れ」
ノックをするより先に、中から女の声がする。
傲慢で強気で、全てを見通すような年若い女の声。ごく一瞬手をかけるのが躊躇われ、けれど、吉野暁海はそこを開けなければならなかった。
「失礼します」
微かに震えた声。ドアの閉まる音とほぼ同時に、帽子のつばを跳ね上げた。宙に舞った帽子に手を伸ばすと、微かに傾いた身体のバランスはそれについていくことができない。
床に叩きつけられる身体。プラチナブロンドと称しても良い薄い色素の髪の下から、それは不釣り合いに覗いていた。
「……先生……」
「ボクからしてみればついに来たか、というのが感想だが、お前には説明してやる義務がある。座れ」
巻いた角。その手触りは生物の角より無機質で、例えるならハードカバーの本の表紙を触っているかのようだった。誰にも言えずにいた。自分の帽子の下に、そんなものが――正確に言えば、表皮が硬変し、色が変わりつつある場所ができているのを、誰にも言えなかった。
土の色と言うには濃く、濡れた土の色、と言うのが近い。けれど、この角はなんとなく木の感触がする。手触りの問題ではなく、もっと超越した感覚として。
来客用の椅子に腰掛けると、大日向がコーヒーを淹れている音がする。いつもの研究室だった。自分だけが、ずっと異質な存在として――あるいは異質であるという思い込みのもと、この場所にひとりいる。
「……俺は、無能力者で。俺は、【知識の坩堝・ご都合主義】に目覚めた。そうですよね」
「そうだな。当時はそう定義するしかなかったが……定義とは移ろうものだ。学んでいる以上、それも分かるだろう?」
「ですけど……!!」
吉野暁海は長らく無能力者だった。弟と違い、その異能を見せびらかすような機会もなく、ただ一般的な学生として、小学校中学校、そして高校を卒業し、創峰大学に入学した。
大学に入学してからその異能――【知識の坩堝・ご都合主義】は発現し、能力者が一般的に義務境域などで学んでくる何もかもを、この大学に入ってから学んだ。どのように付き合うかのみならず、人へ向ける可能性がある場合の倫理的部分、その他“何か”起こった時の対処法……弟がとっくに知っているだろうことをようやく学べて、自分も肩を並べることができたと思ったのだ。思ったのに。
「では正直に話そうか。ボクも当然【知識の坩堝・ご都合主義】を持っているが、本来この系統のご都合主義は、生き物そのものを呼び出すことから、ごく一部の能力を自分に写すことまで自由自在だ。それ故に修得は比較的容易であり、学べば学ぶほど自分の有利な立ち回りを学ぶことができる。これは話したはずだ」
「……はい……」
【知識の坩堝・ご都合主義】(アーカイブマスタリ・アズユーライク)は、非常に自由度の高い、そして学びがその能力に直結する能力だ。例えば足を止めることなく走り続けるために、赤血球の構造を変化させたり。例えば重力を無視するために、ファンデルワールス力による吸盤を手足に実装したり。そのような動物がいて、どのような原理で発生していて、そしてその動物は何と――通名ではなく学名で――呼ばれているか。それらを揃えてようやく、実践級の能力に持ち上がる。
【ご都合主義】とは要するに、自分にとって不要な部分を切り捨てよ、という意味だ。その瞬間のために呼吸の方法まで変えてしまって窒息しては意味がないし、寒さで動けなくなっては意味がない。自分に必要なところだけを切り出し、継ぎ接ぎでもいいようにセットする。それこそ好きなように、自分という箱に力を詰め込むのだ。
「吉野。お前は何か悩んでいたことがなかったか?」
「……。……陸上の生物は、どうやっても、俺の身体に定着しませんでした。水中の生物……もっと言うと、海の……海の生き物しか……」
楽しみにしていたことがある。
【知識の坩堝・ご都合主義】をものにしたら、弟と戦ってみたかったのだ。戦うと言っても大げさなことでなく、例えるならじゃれあいくらいの、小さい頃に服を焼き焦がされて終わったような、それくらいのことでよかった。
そのためにどれだけ陸上の生物の特性を勉強し、学んでも。その特性を都合よく、その体に貼り付けることができない。
「ホタルやコウモリと言った“そのもの”を利用することはできる。まああの辺は基本のきだからな」
「……俺は、」
「もっと自分の肉体面が強化できることを期待していた」
「……ッ……」
言い返す言葉がなかった。
大日向研究室に所属している面々の殆どは、【知識の坩堝・ご都合主義】を修得しており、大なり小なりそれを利用している。基本のき、と大日向が言うように、少なくともこの研究室では、それができて当たり前のはずだった。
「悲観するな。それはそれで特化型だと言うことだ」
「……」
「ボクらは“似ている”ということで仮の名付けを行うことがある。お前の能力も【知識の坩堝・ご都合主義】に酷似していた、ただそれだけのことだ。だが明確に違う、ということがハッキリしたんだよ、吉野。お前が自分から戦おうとしたことで」
「カジキのことは忘れてくれませんか!!」
「無理だな」
長い白衣の袖から小さな手が覗いて、大きいマグカップになみなみ注がれたコーヒーを啜る。自分に出されていたコーヒーの水面を、ぼんやりと見つめていた。
「吉野。別段嘆く必要も、恐れる必要もない。お前は固有名を得ているということなのだからな」
「……けど、俺は……そんなのが欲しかったんじゃない!!」
「……」
無能力者でも問題ないよ、と言ってくれた父親。暁海は暁海だからね、と肯定してくれた母親。――兄貴は兄貴だよ、と言ってくれる弟。
そのどれもが信じられない。より正確に言えば、その言葉が信じられない。本当に、そんなことを言われていただろうか?
「受け入れろ。出たものを無に返すことは難しい」
「……」
「それともお前の学びとは、その程度で揺らぐものなのか?ならここを出ていけ」
「……こんなくらいで、出ていくと思って言ってますか」
「無論、出ていくようならそれまでだとも」
大日向を睨みつけている自分の顔が、自分のものでないように感じる。
白衣の人間を睨みつけるような経験なんてなかったはずだ。けれどその顔を、――自分を試すような顔を、知っている気がした。
「……ひどい話をするために呼び出したんですか?」
「呼び出し?アポを取ってきたのはお前だ」
「……すいません。何でもないです」
きっと、いつもより早く家を出てきたからだ。
きっと、この奇特な状況が全てを狂わせている。
「構わん。我々はすでにお前をどう定義するか決めている」
「……あ。【知識の坩堝】でないなら……」
女は一冊の本を書棚から抜き取った。それは古びた本だった。ぱらりぱらりと捲っていることが意味を成さないということに吉野暁海が気づいたのは、そこを覗き込んだときだった。
何も記されていない。
「【深閉架書庫の錨】(ダイビングライブラリーアンカー)。故にお前は海にしか潜れず、そして海と関連付けられる。」
ちょうど船が錨を下ろすように、強固に。そう言って、大日向はその本を吉野暁海に差し出した。
何のタイトルもなければ中身もない、ただ白紙の本だった。その割に随分年季が入っていて、折れや欠けが随所に見られるし、紙も焼けていた。
「……これは……」
「ある筋から手にしたものでね。お前の迷いを断ってくれるかもしれない」
「……俺は……迷ってるんですか?あんまりそういうつもりは」
何も書かれていない本が、自分の迷いを断ってくれるとは思えなかった。確かに読書は好きで、暇さえあれば本を読んでいたような幼少時代を過ごしたが、どうにもしっくり来なかった。
例えるなら、うまくはぐらかされているような、そんな感じだ。
「いずれ分かるさ。ところで午前八時になると西村が来るが」
「……コーヒー飲むまではいます」
「分かった。ボクは業務をするから好きにしていろ」
大日向が本来の座席に戻ってしまって、吉野暁海は何も聞けなくなった。いや、聞いても良かったのだろう。これが意味するところが一体何なのか、一体何を考えているのか。
自分が不要だ、と判断したのだ。だから、何も聞かなかった。何も聞かずにコーヒーを啜り、一限が来るのを待った。
ひょこり、と顔を出してくる姿に、ノータイムで肘を入れていた。
ぱかりと空いている空間から聞こえてくる男の呻き声の代わりに、顔を出したのは黒髪の少女だ。光を反射すらしない漆黒、ツートンカラーで構成されたひとでなし。
「ハリカリがついに渡したのか!と嬉々として出てくるところだったぞ」
「ボクにそれが予測できないと思っていたのかな。まあ君たちにはありがとうを言わなければならないのだが」
長い舌を出して笑っているのは、ハリカリという男の使い魔だ。黒いからスミ、というド安直命名だと聞いたが、その舌は白黒に映えるように赤い。
「けれどいいのか?スミたちは知っているが、あれは知らない」
「それは世界の理だ。ボクの狙いはそこじゃない」
「フーン……」
「あいてて……なあ大日向女史。その対応アリ?」
すぽん、とでも音が立ちそうな勢いで空間に引っ込んでいったスミの代わり、男が顔を出す。白髪を長く伸ばし、穏やかそうなツラでいるが、その本質は混沌であり、そして中立だ。面白そうだからという理由で対立する両陣営に軽率に手を貸し、自分はその場から逃げおおせ、手の届かないところから見ていたことを嬉々として話すような男だ。絶対中立主義とは言うものの、その中立の定義は己の中にある。
「当然だ。大業を成した以上一発入れるのが中立ではないか?」
「そんな中立条件設定したことも実行したこともないな……まあわざわざ探してきた“戯書”だ。これで君たちの望みもだいぶ叶うんじゃないか」
「ギショのニセモノで偽書な気はするけどな。スミってばてんさーい」
分厚くて大きく、そして何かの力を感じられる本であれば何でもよかった。【鈴のなる夢】は、これで感づくはずだからだ。
戯書。それは一月ばかりの間に、この男が探し当てた接点だ。パライバトルマリン、【鈴のなる夢】、そして【望遠水槽の終点】は、全てがそこに繋がるようにできている。何故“できている”と表現するのかといえば、本来の物語は幸せな結末で終わっているからだ。
幸せな結末を迎えなかった、迎えられなかった一つの可能性。それが【望遠水槽の終点】であり、故に終点と銘打たれているのだろう、というところまで、ハリカリは調べ上げ、適当な魔導書を戯書として偽造した。名前の通りに墨喰いであるスミの力で、文章のインクだけ引き抜いてしまえば、何か不思議な力がするまっさらな本の出来上がりだ。
「僕の仕事がこれで終わりだと思えば安いものとは思うけれど」
「いつ誰が終わりだと言った?貴様は徹底的に使い潰すぞ。やり口は覚えたからな」
「いいぞいいぞー。過労死だ。スミも応援しちゃう」
「勘弁してくれ」
扉が開く音と同時に、男と女の姿は霧散するように消える。