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10 Ex03
二年と少し前。イバラシティにやってきて間もない頃。
この街に居るはずのないものと出会ったその日の出来事を、時折思い出すことがある。
◆ ◆ ◆
きっかけは、部の仕事が長引いたことにあった。
校舎を出た時には既に外は暗く、校門を通り抜けた段階でそのまま真っ直ぐ帰宅すべきだろう、との考えが頭を過ぎってもいた。
ただこの日を逃すと予定が狂い、大事な約束に間に合わなくなる可能性を恐れたあまり、近所の手芸店に寄り道してしまった、その帰り道。
人通りの少ない路地のやや先の方、一本曲がって更に奥まった辺りから、奇妙な音が耳に届く。
えらく甲高い、何か。どうすれば出せるのかも想像出来ない、不思議な音。
「今のは……?」
自然と、足がそちらに向かって動いていく。
近付くにつれ大きくなる音の正体が、まだ掴めない。
「……何、あれ……」
街灯の明かりがやたら遠く、月にも雲がかかって、路地の入り口からはっきりと奥が見えない。
未だ暗闇に慣れずぼんやりとした視線の先に、いびつな影が一つ、二つ、そして三つ。
どうにか目を凝らした瞬間、自分に反応するかのように影が蠢く――そんな感覚があった。
「ひっ……!」
幾つかの情報を認識してからというもの、己の本能的な部分が警告を発しているのがわかる。
これ以上は危険だ、と。一刻も早くこの場を去るべきだ、と。
頭では理解しているのに、何故か足が動かない。
音の発生源は、紛れもなくあの影だ。それだけは、どこか確信めいたものがあった。
金属音などではない。まして人の声でもない。しかしとても良く似ているようなそれは、
「キィィィィ――――ッ!!」
――動物の声だ。
そう脳が理解した時、"それ"は顔の前にまで迫っていた。
手足は固まり、声すら出ず、ただ目を見開いて。
怖気が走って、背筋が凍り、一切の反応も出来ない自分に向けて、勢いよく飛んでくる影。
「…………っ!?」
鼻先数センチといったところで、"それ"の動きが止まった。
視界のあちこちに、橙色の光の粒が舞う。
影が何かに阻まれたような不自然さを感じ取って、今度こそ足に力を入れた。
さっきの震えが嘘に思えるほど、軽やかに体が動く。
その場で身を翻し、精一杯地面を蹴って、なるべく人気のある方へと駆ける。
何度もよろめいて、みっともないくらいに息を切らし。
脇目も振らず、痛む胸を押さえながら必死に走り続けて。
「はっ、はっ……はーっ……」
インドアな自分が、いったい何分走ったことか。
どうにか適度な明かりのある公園へとやってきて、タイル張りの広場の中ほどで腰を折る。
そうして僅かな余裕が生まれたことで、恐る恐る後ろを振り向こうという発想が湧き。
「……そう、だよね。そんな上手くいくわけ、ないですよね……」
自分目掛けて飛んできたもの、その奥で蠢いていたもの。
あの場で確認できた三つの影全てが、すぐ傍にまで近付いていた。
数段明るい環境に移ってなお、"それら"は黒い靄に覆われてシルエットが判然としない。
そういう得体の知れなさが、文字通り、目前にまで迫る命の危機を伝えてくる。
足が悲鳴を上げている。呼吸だって乱れたままだ。
とても第二ラウンドなどと言える状態ではない。
意思疎通すら望めない"それ"からずれば、こちらの都合などお構いなしに決まっている。
「キ、キィ――キィケケケケケェ――――ッ!!」
耳を劈く高音に思わず両手をあてがって、同時に体勢を崩し尻餅をつく。
最早どうにもならないことを悟った直後。一条の淡い光が、吼える影を刺し貫いた。
◆ ◆ ◆
"それが靄を取り込んだ時、そこには醜く大きな花が咲く。"
◆ ◆ ◆
動きを止めた影の一つが、ぼろぼろと崩れて地面に落ちる。
すかさず一枚のカードが投げ込まれて、形を失った深い黒を吸い込んでいった。
横合いから飛んできた物体が、槍のような棒状のものであることに気付くまで、えらく時間を要した。
半ば放心していたところに人の声が届いて、ようやく我に返ったからだ。
「どこの誰だか知らないが、そこを動くなよ」
返事の代わりに首を動かして、そちらに意識を向ける。
街灯の傍にあまり背の高くない白髪の少女が一人。緑白色の光を纏い、片方の手でこちらを指さして。
その後ろで微かに景色が歪んだかと思えば、殆ど間を置かず閃光が煌めいた。
「ギ、ヒャッ……」
再び正面に向き直ると、二つ目の影が槍に刺され消えかかっていた。
目に見える光景に対する理解が追いつかず、言葉を失う。
そんな自分を他所に、残った影はまたも耳障りな音を立てて蠢いた。
「遅かったか」
少しずつ、"それ"を包んでいた靄が晴れる。
三対六本の尖った脚。長く太い尻尾が波打って地面を削り、面長で角張った頭は髑髏のそれにも見えた。
そして何よりも目を引くのが、背中で花開いた大きな植物。
南国のそれを連想させる、けれどもっとずっと広く禍々しい花弁から、同じ靄が溢れ出る。
最早元が何であったのかも分からぬまでに変わり果てた影が、少女を見つめ唸り声を上げた。
矢庭に、少女の文言が耳朶に触れる。
「――――キベルネテス・ミクスタ」
言い切るや、周囲の空間ごと影の怪物を押し潰さんとする、獣の咆哮が轟いた。
およそ声として聞き取ることの出来ない――それなのに空気の震えから、確かに吠え猛るものがそこにいる。
少女の背後で揺らめいていた何かに、光の粒が集まって人の形を象っていく。
「……わ、に……?」
現れるは、人型のシルエットに似つかわしくない鰐の頭。半人半獣とでも言うべき、異形。
緑白色の隆々とした体は確かに人間のそれであり、綺羅びやかな装身具が風に揺れて鈴に近い音を立てる。
些か雰囲気は違えど、その出で立ちには神々しさすら感じるほど、厳かで、異質な気迫があった。
半ば見惚れていた間にも、影の怪物は少女へと距離を詰めていた。
歪んだ脚の一本一本を少しずつ前に出し。決して跳び掛かるような猪突はせず。
ああ見えて、あれには充分な知性が備わっているのだろう。
明らかに、確実に仕留められる間合いというものを測っている。
「これ以上広がっても困るんでな」
慎重さを持ち合わせていた怪物とは裏腹に、先に動いたのは少女の方だった。
鰐の双眸が強く輝き、再びあの雄叫びが響き渡る。
「キィイイイイ――ッ!!」
眼光が空中に軌跡を描き、瞬く間に両者の影が重なった。
高く跳び上がった少女と、それに追従する鰐とが怪物の目前に迫る。
その隆々とした腕が地面を叩き割らんとする勢いで振り下ろされ、怪物は頭からめり込んだ。
すかさず、もう一方の腕に握られた獲物を胴体に突き刺して、動きを止めにかかる。
「グ、ギャッ!?」
あの影がどういった存在かは解せずとも、これが苦痛に喘ぐ悲鳴なのだということは伝わってくる。
悍ましい声に怯むことなく、少女と鰐は一本、また一本と棒状の物体を刺し続け。
さながら昆虫標本といった様相を呈する怪物をじっと見つめ、最後の一本を背中の花に突き立てた。
最早音として認識出来ない何かを発しながら、影の怪物の体が崩れ始める。
「――――――――」
怪物を形成していた黒い靄が少女の近くに集まり――ごく小さな塊となって地面に落ちた。
硝子瓶らしき物体を拾い上げて、彼女は大きな溜息を吐く。
役目を終えた鰐も、光の粒となって散っていき、完全に居なくなる。
後には何一つ残っていない。元となったであろう生き物の残骸すら、消えてなくなった。
まるで夢でも見ていたかのような、そういった現実感のなさだけが胸の中で渦巻いて。
「これだけはっきりと見られたからには、はいさようならとは言えないな。
暫くの間、キミのことを調べさせてもらうぞ」
「調べるって……あなたは、誰なんですか?」
助けられたとはいえ、無条件で信用するわけにはいかない。
聞きたいことは山程ある。
さっきの怪物は? あの鰐は? そもあなたは何者なのか?
「せめて、先に名前くらいは教えてもらえませんか」
「わたしは、双海――双海、七夏だ」