
無骨な廃コンテナの内側にはボロ布を継ぎ接ぎしたカーペットが敷かれ、にわかに彩りがもたらされていた。
その上にはちゃぶ台が一つ。載せられたガスコンロが鍋を温め、こぽこぽと湯がわいている。
中には人参と白菜、ブナシメジ、ネギ……それから豆腐が浮かび上がってくるところだった。
「おーし、肉行くよ?」
美香は『しゃぶしゃぶ用』『2割引』とシールが張られたラップを破いて豚肉を鍋の中へ放り込む。
一方の一穂はというと、とりあえずアクを取るのだけは手伝った。
「さ、しっかり食べなさい。ずーっと家無しでいたんでしょ」
言いながら、美香は鍋から肉をつまみ上げる。
「家がなくとも生きていくことはできました。栄養状態にも今の所問題はありません」
「そういう問題じゃないでしょーよ……」
「廃棄されたコンテナに無断で住み着くのは犯罪であり、そちらのほうが問題と思われますが」
「いいのよバレなきゃ。あたしの力で壁の振動を抑えてあるから声も漏れないし。
第一犯罪ってんならこのコンテナだってきちんと処分されたもんじゃないんだし、五十歩百歩だわ」
このコンテナは、コヌマ区の森の中にぽつんと棄てられていたものだった。
「……空の下で寝てて、デビアンスに襲われたんじゃなくって」
「就寝時ではありませんがDE-317と遭遇しました。対象はこの町の住民と思しき人物に殺害されました。WSO職員規則に従えば―――」
一穂の言に、美香は二枚目の豚肉を口に含んだまましばし静止した。
「しゃーないしゃーない! 場合が場合だわ。
無事に帰れたらちゃんと報告しましょ……ってか、今はまだ、帰れるかどうかだってわかんないけどね」
「美香さんは、先ほどのDE-96の他にはなにかデビアンスに遭遇したのですか?」
DE-96―――あの波の中に潜む怪物は、今はクーラーボックスの中に収められ、南京錠つきの鎖でぐるぐる巻きにされている。
「や、あんだけ……とはいえ、他にも来てるって思うのがフツーよね。
あーもうどうすりゃいいのよったく、581とか977とか来てたらって考えると、えェい!」
美香は野菜と肉とをまとめて頬張り、しばらく噛んでから炭酸のジュースで飲み下す。
「……なんでこんなことになっちゃったんだろうね。わかんないよ、あたし」
カスミ湖では絶えず強かさを湛えていた美香の目は、今やすがるようなものに変わり、絶対の記憶力を誇る一穂へと向けられた。
が、
「僕もです」
「へ?」
「WSO研究棟からこの街へ転移する前後の記憶がありません。
なにか異常なことがあったと思われます」
美香はきょとんとしていた。
異常だなんて、そんなの言われるまでもない。
もう何もかもが異常だ。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
その世界の人類は、ある時から社会に受け入れるものと除けるものを決め、選り分けるようにした。
受け入れたのは、挙動について再現性があるもの。自然科学の方法論で対応しきれるようなもの。努力と信念と敬意でもって高く積み上げられてきた人類発展の歴史を根本からひっくり返すようなまねをしないもの。
除けたのは、それらに当てはまらぬもの全て。未知なるものであり、かつ未知でなくなることを力いっぱい拒んでいるようなもの。もしも無垢なる人々に接触したならば、たちどころに世界を、現実を信じられなくさせるようなもの―――すなわち、異常なもの、逸脱したもの。『デビアンス』。
"World Standardized Organization"、縮めてWSOなる秘密組織が、この世の―――あるいはこの世ならざるものも含めて、あらゆる事物をこれら二つのカテゴリーに分ける仕事を担っていた。彼らは巨大な力と予算を駆使し、『デビアンス』を見つけ出しては社会から排除していった。
だが、かといって破壊したり殺したりしたというわけではなかった。WSOは確保したデビアンスを手元に残し、研究していたのである。
いつの日か彼らを組み伏せ、『受け入れる』ために。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
WSO日本支部、普段は行くことのない部屋で一穂と出会った日のことを美香はよく覚えている。十二歳の誕生日を迎えて間もない時のことだった。
「初めまして。DE-216です。よろしくお願いいたします」
彼は足を揃えて背筋を伸ばし、ほぼ精確に四十五度のお辞儀をしてみせた。
その動きに、美香は動画共有サイトで暇つぶしに見た、二十年以上も前の人型ロボットのプレスリリースを思い出す。
「……えと、名前ってない? その、ファーストネームとセカンドネーム」
「カズホ・ミヤタです」
「……姓と名」
「宮田一穂です」
この間、一穂は全くの無表情。
美香は面食らっていた。ロボットどころじゃない。声をかければ施設の案内やコンピュータ操作の代行をしてくれる人工知能エージェントだって、今日びもうちょっと人間味があるし、融通も利く。
そういえば彼は眼に光が入っていないような気がするし、肌も赤ん坊みたいにしっとりしている。もしかして本当はアンドロイドか何かなんじゃないか、と美香が思い始めた時、
「あなたは、DE-256ですね?」
と、またも平坦な一穂の声。
「川野美香。美香でいいわ。あたしも一穂って呼ばしてもらうから。
いつまでかわかんないけど一緒にこのフロアで暮らしてくんだし、フランクにいきましょ」
「了解しました」
「よろしく」
美香が手を差し伸べる。一穂は少し遅れて反応し、握手をした。
デビアンスたちはDEという接頭詞とナンバーをつけられ、管理されている。
一穂と美香はその異能―――こちらの世界では『逸脱性』と呼ばれていたが―――ゆえに、デビアンスとして扱われていたのだが、一方で一人の人間であるとも認められてはいた。
少なくとも、この時点からは。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
一穂は、時には便利で、時には厄介だった。
たとえば寝泊まりしている部屋を離れてよその研究棟に行くときには、
「美香さん、ロックをかけ忘れています」
「あ、え、なんでわかんの?」
「ドアが閉じる音の直後に、ロックの音がなかったためです」
「はあ」
たとえばWSO内のショッピング・モールへ買い出しに行ったら、
「ちょっとちょっと、一穂! どこ行くのよ!」
「必要な商品を確保してレジへ向かう最短ルートを辿っています」
「わかんの!? って、待ってよもう!!」
たとえば夕食の調理を任された時には、
「美香さん、味噌汁の塩分が多すぎます」
「えぇ!? いつもと同じくらいよ?」
「味噌の分量が普段より一割ほど多いと思われます」
「そ、そんくらい別にいいじゃんって……」
あるいは、たとえば、
「美香さん、トイレが流しきれていません。臭いが―――」
「あぁもうわかったからちょっとはデリカシー持ってよ馬鹿!!」
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
諸事情で生活をともにすることになったとはいえ、流石に寝る部屋は別だった。
「……はぁーあ」
シャワーを終えてパジャマに着替えた美香は、白い布団に灰色のフレームのベッドに転がり込んで、ため息をつく。
「あいつが来てからたしかに生活は効率良くなったって思うけど、なんでこんなモヤモヤすんだろ……」
ごろんと寝返りを打って、物思いに耽る。
一穂も何の前ぶりもなくやってきたわけではない。あの数日前、美香の世話をしている―――『デビアンス』たる彼女の担当者となっている研究員たちがちゃんと教えてくれていた。
感情が薄い感じがするかもしれないけど、とも伝えられてはいたのだが、さすがにこれほどとは思わなかった……
「……や、他にもあったわね、言われてたコト」
彼の『逸脱性』に関する話だ。
一穂は自らの記憶をなにかに焼き付け、それを通じて記憶を他者に伝染させることができる。ただし焼き付けられるのはあくまで記憶であり、全く経験したこともないことを想像して使うことはできない。
そして、この力は異常な記憶力によって支えられている。一穂はこれまでの十数年の人生で見た、聞いた、触れた、嗅いだ、味わった全てを記憶しており、忘れることはない―――忘れるということが彼にはできないらしい。加えて感覚の鋭さも人並み外れており、それが記憶をより鮮明なものにする。
美香は、気に入らないものはその気になればある程度退けたり逃げたりできるのだと思っていた。
彼女の『逸脱性』である、波を薙ぐ力……うまく応用すれば、壁の向こうから伝わってくる騒音を抑えたり、工事による振動を防いだり、生き物の心臓を止めてしまうことさえできる。
逸脱性を抜きにしても、嫌なものは嫌と言える、自我の力が彼女にはある。
自分を守れるだけの力と、守ってしかるべきだという確信がある。
だが、一穂はそうなのだろうか。
世界をありのまま見つめ、その全てを憶えてしまうとは、どんな気持ちなのだろう。
デビアンスだらけの場所で過ごしていると、世界には信用ならないものや恐ろしいものの方が多いのだと、どうしても思えてきてしまう。知っている人間がデビアンスの犠牲になったことだって一度や二度ではなかった。
悪いことを思い出して嫌な気分になってきた時、美香は体を動かしたり寝たりして自分を騙す。
だけど、一穂にそれは出来るのだろうか。
「……何。何あたしアイツのこと心配してんだか。
いいやもう。寝ちゃえ。明日も早い……」
美香は丸くなって目をつむった。拭いきれていない水気が布団の中に染み込んでいった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
一穂はポリタンクにためた水を少しずつ使って鍋と皿とを洗っている。スポンジに最低限の洗剤を含ませて表面をこすり、汚れを含んだ水はバケツの中にためる。動作は洗練され、ひたすらに効率的だった。
美香は手伝わせてもらえず、仕方がないので新聞を読んで過ごしている。
例の、ある日突然イバラシティの住民全員にふりかかった『侵略の報せ』についての調査はまだ行われているようだが、近いうちに打ち切りになりそうだった。どんなに衝撃的な事件でも日が経つにつれて熱は冷めていくものだ。
今はむしろ他のニュースが目立つ。誰もが異能を持つこの町ではそれを利用した犯罪も少なくないし、そのカウンターとなるようなものも多々ある―――昨日は、壁抜けの異能で銀行破りを試みた輩がいた。ところが壁の中でそいつを待ち受けていたのは広大な迷路で、彼は迷子になった挙句生き埋めになって掘り出された。壁に迷路を作り出してみせたのは最近雇われた警備員だったのだが、その後哀れなことに彼は解雇されてしまったという。コソ泥を退けた功績より、そいつを掘り出すのにかかったコストの方がずっと重かったらしい。この警備員が次なる犯罪者にならないことを美香はひっそりと祈った。
ともあれ、こういう中からイバラシティの人間ではなくデビアンスが関与しているだろう事件を抜き出さなくてはならない。
これもきっと、一穂ならもっと上手くやるのだろう。直接デビアンスについての情報を教えられておらずとも、彼らが逃げ出したりあるべき場所から離れてしまうことは時々ある。そういう時、どんな騒ぎが起きてたかだって、一穂は全て覚えているはずなのだから。
それでも、精一杯やるのだ。
デビアンスがイバラシティをうろついているのは自分にとっても問題だし、一穂には生命を救われた恩がある。
それに……少なくとも、一穂を独りきりにすることは、美香の心が許せなかった。