006.「HSP」――もしくは、実在の否定と探偵の居場所について
「中学生の頃から、一条くんと仲が良かったって聞いてるけど――」
一条燈大が、検査の名目で病院にやってきて。
その付き添いに家族を指定されたものの、イバラシティに彼の家族はいない。
彼が言えたことは唯一つだ。「一緒に暮らしてる奴はいますけど」。
そんな経緯で、小野木瞬はこの大学病院に連れてこられることになり。
検査中で燈大がいない間に、白衣を着た医師から視線を向けられていた。
「彼、君が知ってる限りでいいんだけど……どんな子かな?」
小野木瞬の顔に浮かぶのは、一筋の困惑。だがそれも今は既に鳴りを潜めていた。
“そういう奴”だと簡単に言ってしまえる程の生活をこれまでの間にこなし、
分かりきっている事実に一つ溜息をつくだけで、ただ、それまでだ。
「そう、ですね。冷めてる様に見える奴、だと思います。
何事にも夢中にならないようにしている、といいますか。諦め、なんでしょうかね。
オレの見ている限り人間関係とかもそんな感じで。
……オレから見れば、したいことがあるはずなのに理屈つけて──」
白衣を着た大人は、静かにそれを聞いていた。
淡々と電子カルテに打ち込みながら、時折曖昧な相槌を挟んで。
幾度か不思議そうな声色が続いてから、言葉を促すように口を開く。
「理屈つけて」
「はい。やっている理由って何だったのか、とか。
そこに大した理由何て必要ないと思うんですけど、あいつからしたら大事な物なのか。
やりたいから、やる。っていう単純なことが、あいつには出来ないように見えます」
言葉に首肯を返し、とつとつと言葉を連ねる。彼にはわからない、という様子はない。
ただ、トータという彼はそういう人物で、そういう物を、身近で見続けてきたという響きがあった。
そこにある響きには、“その単純な物を選べさえすれば”という信用がにじみ出ている事に、
小野木少年本人には、“そういう”自覚はあまり存在していない。
「そういう時、小野木くんは彼になにか言ったりするのかな」
医師は、一瞬だけ目を細めた。単純なことが、あいつにはできない。
その言葉に僅かに視線を落としてから、また手元のカルテへと。
そのまた次には小野木少年の顔へと医者の視線は移動する。揺らぐ。
「何も言っていなくても、そういうときにどうしてるか、教えてもらえるかな」
小野木瞬は一瞬目を伏せる。何処か後ろめたい事があるかのように。
まるでそれは幻、或いは無意識の物だったかのように、消え去っていた。
言葉は、素直に文言を連ねる。ありのままを。そこにある通りに、淡々と。
「その……、割と一緒にいたからか、売り言葉みたいなことを言ってみたりします。
“やれないんなら、やりたくないんじゃないのか”とか言って、笑ってみたり。
でも、決まってあいつ、笑うんです。“そうかもな”って。
オレは、意図は伝わってる、と思ってるんですけどね。だって、」
その先の言葉を口にすることなく、少年は口を閉ざした。
言うべきなのか、それとも本人にも言葉にするのが難しい、とでも思っているのか。
それを知ってか知らぬか、大人はやや諌めるような口調で少年に告げる。
「言いにくい話だけどね」とクッションを置いてから、少年と視線を合わせて、ゆっくりと。
「“やれないこと”と“やりたくないこと”はね、違うんだ」
少年に、できるだけ柔らかい口調と印象を保ったままに、それでいて冷ややかに。
「例えば、もし。君が陸上選手になりたかったとしよう。そういうときに、君はどうする?」
問う。
「え、ぇと。陸上に関して詳しくないんで細かくはいえないんですが……、目指します。
必要な練習があれば、それをやります。すいません、どんな練習かはわからなくて。
ともかく、なりたいんなら、それに近づける手段を試してみたいと思います」
その質問の意図が少年には分からなかったわけではない。
やれないことと、やりたくないこと。その違いは当然認識している。ただ、ただただ。
彼にとって、“トータ”という少年にとってのそれは、
間違いなく“やりたくない事などでは決してなかった”。だから──。
「もし、“そうしよう”として、“そうできなかったら”。
例えば……生まれつき、心臓に大きな病気を抱えていて、
“そうしたい”けど“そうできない”。そういうものがあるっていうのは、わかるかな?」
頷いていいのか、それとも頷かない方がいいのか。
瞬という少年は逡巡した様子を見せた後、一つ頷いた。大人びた少年でも、ここではただの高校生で。
「それは……分かります。でも、オレはそれでもやりたいなら諦めたくないです。
……それでもできる方法を探したいです。
それでも、それでも、って言って、出来ないって言われたら、無駄でも挑戦したいです」
此処まで言葉を選びながらも、少年の脳裏にはある思想が宿っている。
自分が何度、自分の脳裏に“オレなら”という単語を浮かばせていたのか、ということを。
少年は、少しだけ聡かった。でも、それによって浮かんだ答えを、うまく認める事が出来ずにいる。
医師は、静かに困ったような笑みを浮かべた。
ただただ、ゆっくりと。そして、しばらくしてから体ごと小野木少年のほうへと向きを変えて。
「……それなら、もう少しわかりやすい例えのほうがよかったね。申し訳ない。
……陸上選手になりたい男の子に、もし両足がなかったら、どうだろうか。
彼は、オリンピックに出られる?」
そう、告げて。答えなど決まりきっている。事実というのは、往々にして残酷なものだ。
先の例え話で、少年が受けるかもしれない衝撃を和らげられると思っているのかもしれない。
走り高跳びのマットのように準備されたその例え話の先にあるのは、ただの針山にほかならない。
「────……」
言葉を詰まらせる。
もし、この少年が限りなく愚かで、そのたとえ話の意味すら理解できなかったとしたら。
……何度でも、何度でも。その走り高跳びを越え続ける。
自分に用意された、そして自分が越えていきたい何かを、一生、ずっと。越え続ける。
その先に用意されている物が、何者であるかなど理解する事はなく。
だが。やはり。
この少年は……少しだけ聡かった。いや、本当なら。
予感をずっと感じ続けていた。だからこそ、認める事などできなかった。自分の思考との食い違いを。
「……あいつは、そうなんですか?」
「“そう”か“そうじゃない”かで言われれば、“そう”と言うほかない。
……ああでも、ただ。それは誰にでもあることの延長線だから、変に気にしなくてもいい。
君は、きっとそういうことはしないだろうと思うから、釈迦に説法かもしれないけれどね」
パソコンに有線で繋がれたマウスを二度クリックする。
乾いた音が響いて、カルテや検査結果の文字列を一通り医師は目で追ってから、
年老いた医師は、やはりまた小野木少年へと言葉を投げかける。
「一条くんの異能の話、聞いたことあるかな」
少年の目線は動く。手は固く握られ、呼吸はどこか浅い。
それでも、普段通りと言われれば、それまででしかない。沈黙は続き、整理などできるはずがない。
「……、はい。それと、今の話に、関係が?」
「一条くんの異能は、“それそのもの”が存在しないんだ。彼は知らないから、どうか内密に」
一条燈大の異能。一日に一度、正確な筆致で風景を「切り取る」ことができる異能。
制御できている異能ではなく、必ず発動するわけではない。
彼は、この異能で「うまく」絵を描いてきた。が、それは。そんなものはなく。
――そう「思っている」だけ。
「彼が一枚だけしか一日に『切り取れ』なかったのは、
……簡単に説明するなら、『過集中』という言葉で説明可能だ。
それも、毎日発動する異能じゃない。『集中できる日とできない日』があるだけなんだ。
本人はそれに気付いていないし、本人はそれを異能だとしか思っていない。
だから、できないのは『自分のせい』じゃなくて『異能のせい』でいられている」
即ち。「本当」は、一条燈大ができないのは「異能のせい」ではなくて、
ただ「自分のせい」でしかなく。本人がそれに気付いているか、それともどういう認識を
しているのかをこの医師は知らない。わからない。真実は、一条燈大という少年のもとにしかなく。
それでも、事実として、彼には「異能が発現していない」ということだけは他者も観測できる。
「だから、君の言葉は――」
その先を聞いていたのは、小野木少年ただ一人だ。
このイバラシティで、病院のスタッフ以外誰も知らない。
学校の級友だって、知り合った誰かも知らない。その秘密は、確かに告げられて。
「だったら」
少しだけ俯いていた視線は、真っ直ぐに医師を見つめる。
誰にも届かない言葉。この医師にしか届かない言葉。
或いはそれは、ロバ耳の王様の秘密を告げる穴のような物だったのかもしれないが、
それでも少年は、確かな意思を持って告げる。自分の犯した罪を償う意味ではなく。
求める物を、ただ手に入れる為だけに。
「オレが、誰のせいでもなくしてみせます」
医師は、笑って頷いた。
「ありがとう」と短く口添えてから、開かれていたカルテを閉じて。
別の患者のカルテをモニタ上に移し直せば、看護師が瞬の肩を軽く叩いて退出を促す。
一条燈大は。一条燈大の異能など、どこにも存在せず。
彼に与えられる診断はただ一つ。ありきたりで、どこにでもある病名で。
されど、その病は確かに身も心もを蝕む病で、身体だけは健康なのに、心の健康を損なう病。
強迫的なまでに「ルール」に苛まれること。
どうしようもないまでに、「簡単にできること」をするまでに時間がかかること。そして。
――色鮮やかに見える世界は、HSPという三文字の英字で示される単調な答えで。
それはやはり、このイバラシティにおける異能と同じようなものでしかなく。
ただ、それが「すべての人間」がそうである可能性すらもある「気質」でしかなく。
この街の「どこにでもあるもの」を持たない少年は、
この世界を見渡せば「どこにでもあるもの」でしかなく。
一つも特別になれずに、ただただ凡庸に病んでいるだけだ。
ただ、特別なのは。――それを知っている、小野木少年、ただ一人で。
HSPの属性は「DOES」という頭文字で表され、4つ全ての性質を持っているとされる。
《処理の深さ(Depth of processing)》
HSPは感覚データを通常よりはるかに深く、かつ徹底的に処理しているが、
それは神経システムにおける生物学的な差異によるものである。
《刺激を受けやすい(Overstimulated)》
感覚的に敏感である。
五感や、人の感情や雰囲気から自身の内部に入り込まれ受ける刺激が非HSPに比べ強い。
何に対して敏感かは個人差がある。説明のつかない多くの刺激を受けるため、心身ともに疲れやすい。
疲れが蓄積され不機嫌や体調不良などにつながりやすい。
嫌なことだけでなく、楽しいことでも刺激が多すぎると疲労になる。
《感情的反応性・高度な共感性(Emotional reactivity and high Empathy)》
神経細胞「ミラーニューロン」の活動が活発であることにより、共感力が高く感情移入しやすい。
HSPは生まれたときから境界を持てないケースがあり、
過剰同調性のために自身と他者との問題を自身の問題として同一視しやすい面もある。
《些細な刺激に対する感受性(Sensitivity to Subtle stimuli)》
人や環境における小さな変化や、細かい意図に気づきやすい。
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