掬って、掬って、何度拾い集めてもそれは零れて落ちて行く。
崩れた肉体はそのまま朽ちる事しか出来ない。
喪われて欠けた精神も、記憶も、それは同様だ。
曖昧な記憶はまた一つ、崩れた肉体と同じように手から離れていく。
それとは裏腹に、自分の感覚が研ぎ澄まされていくような、この感覚は一体何なのだろう?
一体、私に何が起きているのだろう?
私はそもそも何故此処にいるのだろう。
どうしようもなく愛おしいこれは何だろう。
どうして"彼の人"は愛おしいのだろう。
また、大切な何かが抜け落ちていった。
そんな、気がした。
私にはアンジニティになる前の記憶があった筈だ。
私はアンジニティになる前から、愛しい人といた筈だ。
愛しい人を、愛しいと思える程の、何かを経験していた筈だ。
私は、お星様とチョコレートが好きだ。
夜空が好きだ。王子様が好きだ。黒い手袋も好きだ。
彼が好きだ。
なんで?どうして?
そう尋ねられたなら、私はもう、口を閉ざすしかなくなり始めている。
思い出せなかった。
そうなるのは、自分の予想よりももっと早かった。
いつか自分がアンジニティになった理由すらも失うのは、勿論覚悟はしていた。
だけどそれはもっと猶予がある筈だと、何となく何処か楽観視していた。
否、もしかしたら現実から、目を背けようとしていたのかもしれない。
しかしその理由がなんだろうと、それはもう些細な話で問題にすらならない。
今更向き合おうが、虚無に還ったものは戻らない。
立ち向かったところでそれは徒労に終わり、何も取り戻せない。
それだけならまだ、チヨ子は自分を許せただろう。
自分のことを忘れようとも、結局は自分が困るだけなのだから。
手を翳せば生み出される、誰かの形を真似たような"其れ"を見る。
精巧では無くとも、細かい所作や振る舞いまでも真似られる"其れ"。
それだけ自分にとって印象深く、大切にしていた筈の存在。
その人が"何故大切なのか"、その理由を喪ったのは自分にとって一番大きな喪失だった。
──勿論、今だってその人は大切だ。
大切で、大事で、愛しているという感情は、決して喪われてはいない。
イバラシティで幼馴染みやお兄さん達と仲良く過ごす中で、最も色濃く自分の中に刻まれているのは、やはり彼だ。
偽りの私が紡ぐ物語だとしても、思い返せば彼との記憶は本当の私からしても幸福で。
その時、少し安心した。
それにすら何の感情も抱けなくなっていたら、自分という存在は塞がらない大穴を作っていただろうから。
まだ、どうにかなる気がして。
まだ私は私であると言える気がして。
不思議な感覚だ。
イバラシティで過ごす知世子の記憶は重なっていくのに、等価交換のようにチヨ子の記憶は消えていく。
──嗚呼、そうだ。
自分という存在を再確認している内に、ふと思い出す。
時間の進みと共に頭に浮かんだ記憶の中の、新しい疑問。
"知世子"に起こっているのは、一体何なのか。
知世子の時も、記憶があやふやな時期はある。
しかしそれはまだ幼い頃の記憶だったからとか、あまり重要ではないからとか、まだ理由がつけられるものだ。
だとすると益々不思議だ。
いきなり私の分身に現れたあの変化は、一体何なのだろう。
"私"の事は、正直あまり好きじゃない。
自分がどうしようもなく辛い時、いつもそこに罵声を浴びせてくるのも"私"だから。
だけどそんな私の分身は、彼の人の大事な存在でもある。
だから何かあったら彼を傷つける事になるし、彼が傷つけば何より私が苦しい。
何が起きているかを、少しでも探らねばならないだろう。
彼の人だけではなく、自分を大事にしてくれる皆の為にも。
"知世子"だけでも、表面上は普通に振る舞ってもらわねばならない。
"私"に影は要らない。
存在しないように、隠さねばならない。
チヨ子
はいつだって、幸福と拠り所の象徴であらなければ。
知世子
「私が救わなくちゃ」
ばけものはひたすらに、傲慢に成長していく。
ばけものをばけもの足らしめるのは、
そのおぞましい風貌か、それとも、
星は消えそうな光を灯す。
その光がか細く、寂しげに揺らめいても。
生き続ける意志だけは、確かに。
時間は進む。残酷に。
空虚は蝕む。凄惨に。
【籠を探す鳥の道】
悪魔でも出てきそうな赤黒い空の下、元々お世辞にも綺麗だとは言えないのに侵略戦争によって一段と壊されていく景色達を一瞥しながら歩いていく。
何処に向かおうだとか、そういうのは決めていない。
行き当たりばったりと言われれば、返す言葉もない。
だけどそうするしかないのだ、自分はただ直感的に彼を探しているだけで手がかりなんてただの一つも無いのだから。
そもそも、此処に彼がいるという確実な証拠さえない。
自分が此処に呼ばれたのは何か理由がある筈で、理由を考えたら彼の事以外に思い浮かばなかった、ただそれだけ。
誰かが言った訳でもなく、そんな痕跡があった訳でもない、もしかしたらただの妄想でしかないかもしれない事柄の為だけに、ワタシは今歩いていた。
それぐらい、彼に会えるのなら会いたくて。
会いたいならば、縋るしかなかった。
ひゅるり、一羽のクロウタドリが思考に耽るワタシに合図をする。
その声は何かを見つけた時の合図だ。
人、物、それらに該当せずとも、兎に角何か気になる物を見つけた時の合図。
鳥達が持ち運べる範囲の物なら合図をせずにそのまま持ってくる筈だ。
だとするとこの子が見つけたのは大型の物品か、それとも何か生きているものだったりするのだろうか。
腕に止まったまあるい目のその子を見つめて考えてみるも、流石に鳥の言葉など分からない。
行くしかないかと覚悟を決めれば、ワタシはその子に案内を頼み、歩き出す。
壊れた建物の瓦礫が積み重なる中、此方の様子を窺いながらも進むクロウタドリを追いかけて歩く。
此処をわざわざ通らなければならない理由でも無ければ、きっと誰も踏み込まないような場所だ。
そんな場所に一体何があったというのか、あまり考えたくないと思った。
人目を避けたい者が入り込むならば絶好の場所だ、此処に何かいるとするなら相当な物好きか、もっと恐ろしい何かなのではないだろうか。
「──……、……」
それでも、ワタシに行かない選択肢は無い。
だから思考をひたすらに回転させ、何があっても身を守れるように策を巡らせながらも、足は止めたりしない。
止めた一歩の所為でまた手が届かなくなったりしたら、ワタシはもう耐えきれないのだ。
クロウタドリが止まった目の前には、見るも無惨な光景があった。
医療関係に従事していて、少なからずそういうものには慣れているつもりだったのに。
それでも動揺を隠せないのは、ただ単に凄惨なだけではなく意味不明でもあるから……だと、思いたかった。
「……う、わ」
瓦礫に寄りかかり、ぐったりとして動かない男が其処に居た。
手術の時みたいに開かれた腹部から溢れ落ちているのは、人間の中身じゃない。
"リュウグウノツカイ"だ。
あの珍しい、深海魚がまるで臓器の代わりみたいに落ちていて、しかも時折蠢いている。
それは確かに生きている証拠で、ワタシは何とも言えない気持ちになる。
得体の知れない怪物か何かが生きていて、それでも命があって良かったと言える者はそういないだろう……きっと。
ワタシが弱いからだとは、こればっかりは思いたくない。
──ふと、男の紅い瞳と、口が動く。
身動ぎもしないまま、ただギョロリと此方を見る目は何となく魚を思い出す。
小さく開いた生気の無い唇から、ごぽりと泡が漏れ出した。
『どうして此処に?此処には何もありませンよ』
その声は耳にと言うよりも、胸の内側にそのまま響いてきた。
非現実的な事柄にはもう飽き飽きする程付き合ってきた故に、驚きは薄いが普通の会話とは質が違うから違和感は拭えない。
そんなワタシを見て、男の口の端が少しばかり持ち上がる。
どうやらワタシは知らない内に、滑稽な顔をしていたようだ。
「捜し物してるんです。だからこの子が気付いたり何か見つけた場所、なるべく回っていて。この目で確かめたかったのですよ」
『へえ?それはお疲れ様です、でも此処にはなンもない筈です。わざわざ誰も来ないように、何もない場所を選んだンですからね』
何処からともなく現れた小さなタツノオトシゴに目を遣りながら、男はそう伝えてくる。
予想していた答えだったが、それにしてはおぞましいだけで思ったより無害だ。
尤も、"本人にその意志がないだけ"かもしれないが。
男はそんな思考を見透かしたかのように、ワタシの瞳を見つめた。
『大事な人なンです?』
「そうじゃなきゃわざわざ此処まで来ませんけど……て言うか、なんで"人"だと思ったんですか?」
『大事な人に焦がれる人間は、分かりやすい顔をしてますンで』
なんてね、と脳に響く声で男はそんな軽口を叩いた。
普通ならば自分も笑って肩を竦めたりだとか、そうだろうか?なんて逆に尋ねたりする気力もあっただろう。
だが、今は急がねばならない。
此処にいられる時間は短い、一人で動く自分にはより時間がない。
だからこんなところでのんびりと会話をしている暇はないはずで、それで、
「オレで良ければ少しだけ手伝いしますケド?」
──その時の声は、ちゃんと耳から届いたものだった。