
「あんなの、きにすることないんだからね」
そう言って、泣いている自分の手を握り隣を歩いてくれた幼馴染みの手の感触を、言祝愛夢は今でも覚えている。
「あむにはおとうさんはいないけど……おかあさんやおれだっているからね」
公園で自分より少しだけ年上の子供たちに、父親がいないことをからかわれて泣いてしまっていた自分を、助けてくれたのは幼馴染みの吉野俊彦だった。
自分たちより身体が大きな数人の子供から、自分を背に庇ってくれた。それでも怖くて泣き止めない自分の手を引いて、その場から連れ出してくれたのだ。
まだそれ程背丈も変わらないはずなのに、その背中がとても大きく頼もしく見えたのも、愛夢はしっかりと覚えている。
「トシくん」
「なに? あむ」
真っ直ぐ前を向いていた俊彦が自分を見る。優しい表情をしていた。
「ありがとう」
「うん。あむはおれがまもるからね」
にぱ、と笑った幼馴染みにようやく愛夢も笑顔を返せたのだ。
幼い日の、他愛のない約束。
なんてことはない、優しい思い出。
だけど、心の中にずっと残り続ける宝物のような思い出。
ーーそれが、幻だったなんて、想像したこともなかった。
「あー、あ」
移動中の小休憩中ちょっとだけパーティメンバーから離れて、愛夢は1人でぼんやりと朽ちかけたベンチで休んでいた。
ハザマに来ると、嫌でも考えてしまう。
――幼馴染みの、吉野俊彦のこと。
彼もワールドスワップの影響でイバラシティに紛れ込んだアンジニティの住人であり、本来の姿はくすんだ金髪の壮年の男性だ。
ワールドスワップが行なわれたのがつい数ヶ月前であることを考えると、当然吉野俊彦が実際に存在している期間も数ヶ月。
故に、当たり前のことであるが、愛夢の幼少期に吉野俊彦は存在していない。
だから、彼との思い出も何もかも、本当は幻なのだ。
その事実を愛夢は上手く受け入れられていない。彼が存在していない、それは解った。解ったが、あの大切な思い出の数々が嘘や幻だったとは、どうしても受け入れられないのだ。
――本来の姿がどうであれ、彼が大切だ。だったと過去形にはとてもじゃないが出来やしない。
偽りの日々だと解っても尚、それらはキラキラと輝いて見えるのだ。
だって、心の支えだった。
小さな頃の彼と他愛のない日々が、今の自分を形作っているという、確信がある。
でも、それすらがそもそも幻で――。
足元がおぼつかない感覚。色んな物がガラガラと崩れるような、そんな感覚。
「…………。トシくんがいなくたって、」
そう、強がってみようとするがそれ以上は出てこない。
彼がいなくても大丈夫、だなんて嘘でも言えない。
あの金髪の男性にこそ「大丈夫」だと言ったものの、実際は泣きそうで仕方がなかった。
「あーぁ」
大切な人はいなくなっていく。
母も、幼馴染も。
もしかしたら、楽しい友人たちや、愉快な先輩だって――。
「―――――――うぇ、」
喉元から酸っぱいものが込み上がるのを感じる。それを無理やり飲み下して、ギュッと眉を寄せて、深呼吸。
心臓がバクバクせわしなく動いて、嫌な汗が流れるのを感じる。
覚えがある感覚だ。母が事故にあったと、連絡を受けた時によく似ている。
その時も、支えになってくれたのは幼馴染と友人達だった。
親類のほとんどいない愛夢にとって、それはどれほど心強かったことか。
だけど、少なくともこのハザマでは、あの幼馴染はいないのだ。
何も言わず手を握ってくれた、あの自分より大きくて少しゴツゴツした手の男の子はいないのだ。
「……辛いなぁ」
言いながら、口元をマッサージする。それから人差し指で口角をキュッと上げて、笑みを作る。
笑おう。
アイドルは笑ってなんぼだ。辛くたって、悲しくたって、誰かの理想の為に笑うのが、役割だ。
以前同級生に言ったように、そこには自分の気持は関係ない。自分がどんな気持ちであろうが、自分の笑顔に、“誰か”が夢見てくれればそれでいい。“誰か”が己の理想と夢を自分に――MUAに、押し付けて、それで楽になったり、元気になってくれるなら、それでいい。
――それが、言祝愛夢の、そしてMUAの“価値”だ。
それはその同級生に地獄だとも言われたけれど。
“今は”それで構わない。
きっと笑ったほうがトシくんだった男性も安心するだろう。
彼はトシくんではない。一緒に成長を重ねてきた幼馴染ではなく、彼なりの事情のある“誰か”なのだから。
それに、「そこまでをお前にかける義理はない 」とも言っていたし。
だったら、笑おう。
“あなたがいなくても大丈夫”
そう笑おう。ステージの上に立って歌って踊るように。
もし気に病んでいるのなら、その必要はないからって。
「大丈夫」
足に力を入れる。
背筋をピンと伸ばして、まっすぐ前を見て。
指先まで神経を張る。ここで手を抜いてしまっては、素人もいい所だ。
そして、何よりも大事なのは笑顔だ。
夢を見させるに相応しい、笑顔。
――――笑え。
「まだ、笑える」
そう口元を上げて、笑った。
そして気づく。
言祝愛夢が言祝愛夢として笑えたのは、友人たちや――幼馴染がいたからだったと。
そのひとつを、喪った。