
蝉の鳴き声が降り注ぐ、七月の終わり。
学校はもう夏休みに入っていた。
沢山の宿題と、進路のことや志望校のこと。それと、家庭のこと、家族のこと。さまざまな感情が綯い混ぜになって言葉にするのが難しい。ざわざわして、耳を塞ぎたくなる時もある。
心に抱え込んだものは色に例えるなら、限りなく黒に近い灰色かもしれない。鉛筆でぐりぐり塗り潰して、真っ黒で見えなくなった落書きのよう。
塗りつぶす前に、私は何を書いていたのだろう。
絵だったのか、単なるメモだったのか。何も覚えていない。
ほんの数秒前の出来事も、たまに思い出せなくて苛立ってしまう。これはきっと受験に対してのストレスだ。
自分は今、神経質になっているんだ。
些細なことでも苛立って、お腹がムカムカしたり、頭が痛くなったりしてしまう。悲しくなることはなかったけど、たまに自己嫌悪に陥ったりと忙しない。
ああ、いやだなぁ。こんなの。
中学生最後の夏休みは、少しだけ刺がささった痛みを感じながら始まった。
部活も、最後の大会をあと一週間後に控えている。今日は朝の涼しい時間に集まってのランニングと筋トレと、スタートダッシュの練習、いつもと代わり映えのない練習メニュー。
二時間くらいはやったのだろうか。
夏場はどうしても暑くなりがちで、外での運動は体調不良を起こすことも多い。気温が高くなるとそんなに長くやらせてもらえないのが現状だ。
それでも、朝の少しだけ涼しい空気の中を。目映い青空の下を。
思いっきり走れるのは、とても気持ち良い。
走っている時は自由で、自分を縛るものは何もなくて、ただひたすら、前にあるゴールラインを目指せばいい。
石灰で引かれた白線。青い空。生温い風。グラウンドに木霊する蝉の声。見えるもの、聞こえるものすべてが刹那の幻のよう。
ちくりと感じる刺の痛みも――今だけは、忘れることが出来る。
走れば、イヤなことから逃げられる。
ぐちゃぐちゃになったわたしの頭の中を、全部真っ白にできる。走れば。ただひたすら走ればよかった。
好きとか嫌いとか、そんなものじゃなかった。
逃げたかった。目の前にあるものすべてから。
ただ、それだけ。
だからね、遠野くん。
「……好きとか、そういうものじゃないよ。私にとって走ることは」
隣を歩く、背丈の高い少年を振り向きもせず。
少女は答えた。
「えー。じゃあ、好きじゃなかったら、キライってことですか?」
「嫌いじゃないわよ。嫌いだったらそもそも走ってないし、部活だって入らないし」
「つまり好きってことっすよね!」
少年は嬉しそうに言うと、眩しいほどの笑顔を向ける。対して少女はうんざりした面持ちだ。
「だから、好きじゃないってば。遠野くんさ、世の中には好きと嫌いの二つ以外だってあるでしょ? そういうものなの」
「そうなんですか? オレは好きとキライしかないですけど」
「それは遠野くんがそういう性格だからでしょ。君と一緒にしないで」
低い声で少年の主張を突っぱねる。明らかに不機嫌だ。少女は大きく溜め息を吐いてから足を止めた。
「遠野くんと私は違うの。君の価値観はよくわかったから、それを私に押し付けるのやめて」
「押し付けてないっすよ! だってセンパイが」
「私がなに? 走るのが好きって答えないのがそんなにおかしいの?」
語気を荒立ててしまう。そんなつもりはなかったのだが、感情を抑えることが出来なかった。
少女は、隣にいる少年を見ようとはしない。視線は真っ直ぐのまま、暗い夜道を睨み付けて。
遠野が聞きたいのは。聞きたかったのは、自分が陸上を好きだという気持ち。それを確かめたかったのだろう。
言い返した言葉から、そんな気持ちが透けて見えたかもしれない。
少女は唇を噛み締め、俯いた。
「全力で、走ることを楽しんでる遠野くんには。今の私の気持ちは、絶対にわからないよ」
息が苦しい。視界が滲んでいく感覚に、心が悲鳴をあげている。
自分にもわからない。この焦りが何なのか。
そしてこの少年にも、わかって欲しいとも思わない。そんな都合のいいことを言えるわけがない。
この少年はただ、走ることが大好きなだけ。
誰よりも速く走りたくて、誰よりも走ることが大好きで、きっと一年後も「陸上が好きだから、オレは続けますよ」と笑ってくれるのだろう。
わかっている。分かりきっていたことだ。
彼と自分は、まったく違うのだ。
「ごめん、遠野くん。これじゃあただの八つ当たりだね」
生温い風が頬を撫でて、蜩の声が夕暮れにこだまする。夏なのに心が寒さを感じるのはどうしてだろう。
少女は頭を振って。
「本当にごめんなさい。私、今はどうやっても君を傷付けることしか言えない。……前みたいに、君と一緒に笑えない。楽しめない」
早口にそう言って、大きく嘆息した。
鞄を持つ手に力が入り、そのまま逃げるように走り去ろうとする。
視界が滲む。目が熱い。胸が痛い。息が苦しい。
感情が込み上げて、どうすることも出来ない。
十五の夏。私が夏をもっと嫌いになったこの日。
生まれて初めて、身近な誰かを『否定』し『拒絶 』した。
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episode2:夏影
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