アハ・イシュケ
馬のかたちをした海の魔物。
人慣れした美しい馬の姿で現れるが、本性は獰猛な捕食者である。
かつて、人は海を畏れていた。
嵐や高波は海の怒りであり、海沿いの町で頻発する水難事故は海の怪異の仕業であった。
言い伝えが骨となり、人々の畏怖が肉となり、幻想が形を成して海を跋扈していた、今は失われた時代。
そんな怪異のひとつ、馬の姿で人を誘い、海中に引き込んで喰い殺す魔物。
それが俺だった。仲間もたくさんいた。
人の肉が大好物だった。そう言い伝えられていたから。
内臓だけは受け付けず、水面に放り出すのが常だった。そう噂されていたから。
怪異にとっての死とは、忘れ去られること。語られなくなること。畏れられなくなること。
人が知恵をつける度に、あれだけいた同胞達は一頭、また一頭と姿を消していった。
ある者は馬の頭に似た奇妙な形の岩に。
ある者は足を取られやすい藻の茂みに。
人の言葉で説明がつくような何か。
最早怪異でも何でもない、何の変哲もないありふれた事物に貶められて、彼等は消えた。
俺は長く暮らした海辺を捨てて、人が船の墓場と呼ぶ難所、魔の海域と呼ばれる海へ泳いでいった。
未だ船乗り達が様々な魔除けやまじないを携えて航海に臨む、海の秘境。
そこにはまだ神秘があった。畏怖があった。
語られる幻想。囁かれる遭難譚。
そこにはまだ、怪異の生きる余地があった。
……最後に船を沈めたのは、いつだったろうか。
この揺蕩い絡む鬣で船足を止め、波濤と蹄でマストを叩き折ったのは。
震え慄く船乗り達を昏い海に引きずり込み、この歯で柔らかい肉を裂いたのは。
――それから数世紀が経ち。
遂に、世界中の海域は開拓され尽くした。
船の墓場も、魔の海域も、攻略法を見出した人間達にとっては最早畏れの対象ではなくなった。
俺は深い深い海の底、知の光を以てなお照らされぬ暗がりに逃げ込むしかなかった。
もう海に引きずり込まれる船はない。
美しい人魚の歌に惑わされる船乗りも、海辺に佇む人慣れした馬に騙される子供もいない。
巨大なウミユリや奇妙な鰭を持つ魚、単眼の鮫。そういった深海の神秘の残滓に囲まれて、ただ故郷の海辺と肉の味を懐かしみながら微睡むだけの日々。
首をもたげて僅かな光の差す水面を睨みつけるだけの気力も、最後には失せていたが。
それでも俺はただ、そこに存在していた。
――消えたくなかった。
ある日、いつものように光の届かぬ澱みを漂っていた俺の身体に、人間の髪のような細いものが絡みついた。袋のように俺を包んだそれはどんどん上へと昇ってゆき、俺は巻き込まれた深海魚達と共に為す術なく海面へと引き上げられていった。
そして俺は、気がついてしまった。
脚も首も、耳の片方ですら、視線のひとつでさえも。
自分の意思で何一つ動かすことができなくなっているということに。
潮の流れに揺蕩っていた鬣も固められたように体に張りつき、薄っぺらい青緑や赤褐色のひらひらしたものが体中に絡みついている。
――ああ。
「こりゃあ大物だぞ」
声がした。
俺は袋状のものごと海面を突き破り、どうやら空気の中にいるらしかった。
飛び出した単眼を晒して事切れた鮫が、袋の隙間から落ちていった。ぼたぼたと水を垂らす俺の下で、慌ただしく何人かの人間が動き回っている。
そのうちの一人が俺を見上げて、隣の人間に言った。
「馬鹿、よく見ろ。どっかの見世物小屋か、廃業した遊園地から流れてきたんだろ。全く脅かしやがる」
男達が見上げる先、吊るされた網の中には。
大量の海藻が絡まった、大きな古い回転木馬があった。
長い間海に漬かっていたような色をした馬は、木彫りの歯で口惜しげに海藻を噛んでいた。
――斯くして。
俺という"怪異"は、世界から"否定"された。