
視界に光が差し込む。ゆっくりと身体を起こす。
息を吐いて見回して、そしてそこにある現実に、もう一度息を吐いた。
山間にひっそりと在るこの家の住人は僕と、飼い慣らした鳥しか居ない。
壁に掛けたカレンダーを見て目を細める。
今日という日は、僕にとって辛い一日だ。決定打となってしまう一日。
僕の師匠が失踪して、七年になる。
出かけて来ると言ったきり、帰って来なくなった師。
彼女はとても優しくて、とても聡明で、とても強い人だった。
病を患ってからはあまり外に出る事も無くなったけれど、
それでも笑顔を絶やさぬ人であった。
僕は幼い頃彼女に拾われ、この小屋で育った。
山の中に捨てられていたのだと、後に教えられた。
故に彼女は僕の母親代わりでもあった。
物心ついた頃には、自然と彼女に書を学んでいた。
彼女の書く字は、どれも力強く、病に伏せた女性が書く物とは思えなかった。
気の弱かった僕には真似出来ずに悔しがっていると、
彼女はそっと肩に手を置いて、僕に言った。
「御前の字はとても優しい字だ」と。
其れから、ガサツな私には真似出来ないよ、と、笑った。
僕はそんな師が大好きだった。
けれど、もう七年。七年である。
普通、世間では失踪から七年が経過すると、死亡と見なされる。
とりわけ病を抱えた彼女である。生きている可能性は、皆無に等しい。
それでも何処かで生きているような気がして、僕は育ったこの小屋で彼女を待ち続けている。
そんな想いも今日で打ち砕かれるわけだ。
そうして僕は気だるげに、彼女の私物を整理し始めた。
押し入れの奥にある箱には書術士としての書物が、大量に収められている。
彼女は短い人生で、これだけの物を書いた。
筆を進める度に、彼女は何をおもったのだろう。
呆としながら、ふと見たことの無い物に気付く。
数々の巻物や掛け軸の上に、乱雑に折り畳まれた半紙があった。
「嗚呼、とうとう、この日が来てしまった。
私は知っている。此度の命が何であるかを。
此度の命を終えた時、私の命も尽きる事を。
彼等はあくまでも、私を使い切ってしまいたいのだろう。
これは私への最期の通告なのだ。
嘗ての私であれば心残りなど無かったというに、今ではこの命が情けない程に惜しい。
できる事ならば裏切りたいものだ。
だがしかし、それが何を意味するかも、私は知っている。
こうなってしまった以上は、形式上従う他は無いだろう。
故に私は赴こう。彼の大地へ。
けれど奴等の命を聞く気など毛頭無い。」
急いで書き殴ったのだろう。あちこちに墨が飛び散っていた。
書術士である師匠にしては、らしくない。
“作品”とは、到底言い難いものであった。
命。奴等。それ等は一体、何だ?
僕は記憶を掘り返す。少なくともそんな事、彼女は口に出していない。
七年の時を経て、何かを掴んだような気がした。
彼女は何かに使われていた人間なのだという事。
そして嘗ては、それに従順に従っていたという事。
知らなかった。頭に何かの衝撃を喰らった様な痛みが走った。
即ち、僕は師匠である彼女に、とんでもない隠し事をされていたわけだった。
そりゃあ、誰だって隠したい過去はあるだろうが、それでも言い様の無い悲しみが僕を襲った。
けれど、僕はその先を見て、更に深く悲しんだ。
「その上で、私に課せられた命は、奴等の命ではない。
私の命は、我が弟子を死なせてはならない。それのみに尽きる。」
紙を握る手が震えた。
それは、
つまり。
あの日、いつもの様に笑って家を出た師の胸中は、どの様なものであったのだろうか。
その苦しみは計り知れない。否、知れて良いものではない。
七年。もう師匠は生きてはいないだろう。
だけど、僕は思ったのだ。
我が師が誰に何を言われ、何処へ赴き、何をして、何をおもって、その生涯を終えたのか。
知りたい。扉を閉めた笑顔の続きは、如何なるものであったのか。
だから僕は、箱の蓋を閉じた。