ハザマの紅い空を見上げていると、不思議と頭に浮かんでくるものがある。
僕が知ることのない、いつかの誰かの記憶。
次元が歪んでいるせいなのかどうかは分からないが、時折、頭の隅を横切っていく。
今日過ったのは、在りし日のグランドマスターの記憶……の、断片だろうか。
折角なので、書き留めておこうと思う。
昔、グランドマスターが旅人生活ではなく、森に定住していた頃。
グランドマスターの元には、日々依頼の手紙が舞い込んでいた。
その殆どは王族や貴族などからの依頼で、グランドマスターは淡々とそれらをこなしていた。
森の中で様々な植物を栽培し、大きな釜で毒薬や媚薬、呪いの薬などを調合する。
怪しい薬と魔法、その陰鬱とした容姿も相まって、いつしか人はグランドマスターを〈魔女〉と呼んだ。
ある日、立派な鷹がグランドマスターの元へやって来た。
彼はその脚に、飼い主からの手紙を括りつけていた。
手紙の差出人は、代々王家に仕える貴族の当主だった。
高級な羊皮紙に仰々しく記された内容は、平たく言ってしまえば暗殺依頼だった。
現王が病に倒れ、次の王には実子である第一王子がなるはずだが、その王子を抹殺して王位を掠め取ろうとする輩がいるのだと。
その不届きな輩を一人残らず始末してほしい。そんな依頼だった。
いつの世も、後継者争いによる泥沼戦争は絶えない。
しかし、どこの国で争いが起きようと、母国を持たないグランドマスターには関係のない話だった。
王族も平民も奴隷も、グランドマスターにとっては大した差のない〈生命体〉でしかなかった。
手紙には、王子の立場が危うくならなければ良い、秘密裏にやってくれれば手段は問わないと書かれていた。
グランドマスターはいつものように、特に何を思うでもなく、暗殺の準備に取り掛かった。
数日後、暗殺用の毒薬を作ったグランドマスターが出かけようとした時。
森の南側が、急に騒がしくなった。
森はその木の一本、枝の一振り、葉の一枚に至るまで、全てグランドマスターの魔力でできている。
グランドマスターの意思で自由に形を変え、時に攻撃し、侵入者を拒む魔の森になる。
その森が、ありがたくない客人の来訪を告げていた。
招かれざる客人は、その殆どが迷い人か、〈魔女〉を討伐しようとする血気盛んな愚者だった。
まともに相手をするのは面倒なので、適当に迷わせて追い払うか、それとも衰弱死させるか。
魔力の木々を通して観察すると、客人は武装した小隊だった。
その先頭にいるのは、暗殺対象の一人。王位継承を目論む、妾腹の第二王子だった。
しかし、その王子はまだ年端もいかない子供だった。
必死で平静を装ってはいるが、暗い森の陰鬱とした気配に、完全に怯えている。無理もないか。
王子の背後に控える、大柄な全身鎧が、おそらく王位を奪い取ろうと企んだ張本人なのだろう。
先程から怯える王子を奮い立たせようと、勇ましい言葉を投げかけている。
尤も、その言葉で士気が高まったのは、王子ではなく隊の大人達だけのようだが。
――少し、遊んでやろうか。
第一王子の王位継承を揺るがす輩は、全員始末しろとの依頼だった。
森に来ていない関係者もいるだろうが、首謀者が消えれば、後は碌な力も持っていない残党の始末だけになる。
彼らが魔女の討伐を考えた理由は、グランドマスターの知る由ではないが、どうせ名声や栄誉の為だろう。
城で大人しくしていれば、まだ楽に死ねただろうに。
グランドマスターは森を動かし、討伐隊を囲み、退路を断った。
当の討伐隊は、自分達が森に囚われたことに気付いてすらいないだろう。
それどころか、大事な大事な王子様が、隊と分断されたことにも気付かない。
小隊が作戦を確認し合う中、幼い王子は森の奥へと歩き出す。
子供の心は純粋で単純だ。怯える心の隙を突けば、あっさりと幻惑の術に嵌る。
小隊は何も知らない大柄鎧の指示で、森に火を放とうとしているらしいが、それも無駄な足掻き。
森に入った時点で、余所者に地の利などありはしないのだ。この森はグランドマスターの城なのだから。
森の暗がりに怯えながら、王子は奥へ奥へと歩き続けた。
王子の眼前には、ぼんやりと発光する青い蝶が舞う。
暗闇に対する原始的な恐怖を晴らせるのは、唯一の灯りである不思議な蝶だけ。
震える脚を必死に動かし、溢れそうになる涙を堪えながら、腰の短剣を握りしめて、ひたすら歩く。
幼い王子はひたすら蝶を追い続け、やがて辿り着いた。
静まり返った不気味な森で、やっと見つけた人の気配。
そこは、〈魔女〉の家。
今回は、こんなところだろうか。
続きは、きっと、また今度。